石井十次~願いに従いて

石井十次~願いに従いて

石井 十次

令和3年3月28日

千二百人を収容した岡山孤児教育会

医学を捨て神の道へ

メラメラと燃え上がる数十冊の医学書。じっと見つめる青年とその妻。

「これでいいんだ」青年は、涙をこらえかねて立ちつくしている妻にこうつ

ぶやいた。明治二十二年一月十日朝、岡山市門田屋敷の三友寺境内で二十三

歳の十次は年来、悩みつづけてきた問題に終止符を打った。

「医者を捨て、孤児教育に生きよう」「恩愛の絆か、天命か・・」

悩み、苦しみ、祈った十次。そして、ついに医学書を焼き、医者との縁をた

ち切ったのだった。

宮崎県に生まれる

十次は岡山県生まれではない。しかし石井十次を岡山県人物誌から逸するわ

けにはいかない。慶応元年四月十一日、宮崎県児湯郡上江村馬場に生まれた

十次は、若いころから人の不幸を見過ごせないたちだった。

明治十二年、十四歳の十次は上京して芝の攻玉社に入学、じゅく生活を経験

する。翌年、脚気をわずらい、退学して帰郷したが、そのころ、ある不思議

な経験をした。当時は西南の役を経て、明治の世は転換期にあたり、社会

国家に国民の関心が集中していたころである。養蚕事業を学ぶため、宮崎

県下の飫肥(おび)地方へ向かう途中、十次は宮崎県の宿で友人と酒をくみ

かわし、激論を戦わした。そして明治政府に憤慨し、岩倉具視を攻撃した。

神の存在を知る

「かくのごとき軟骨漢は以て国家の柱石とするに足らず。寧ろ斬って、以て

かかる奸物を除くに如かず」こう記した報国党結成の趣意書を部屋に残した

まま、翌朝、隣室で国事探偵が聞き耳を立てていたことも知らずに、飫肥

地方へ向かった。なにごともなく数日が経った。そして、ある夜、夢を見た

「二人の巡査が来て、刀をさしていたとの理由で、私をつかまえた。

それから数か所、白州のようなところに引出された後、だれとも知れず、

ーお前は無罪放免になるーと私にいう声を聞いて眼がさめた。」

翌朝、十次は捕らえられ、夢でみたように、数か所の白州を経て、鹿児島

の裁判所で尋問を受けた。結局、疑いは晴れて無罪放免。

この間五十余日の未決拘置暮らしをした十次は、その中で、「この世には

神が存在することをはっきりと知るとともに、罪なくして、この苦を味わっ

たのは、天が大任を自らに与えることと自覚するにいたったのだった」

甲種医学校に入学

宮崎警察署長をしていた父の同僚の世話で、警察官になったが、遊郭の女を

助けるために奔走したとき、病になったのがきっかけで、クリスチャン医師

の萩原百々平と知り合った。彼に、「おまえは岡山に行って、そこで医学の

勉強をしなさい。そして金森通倫牧師からキリスト教の教えを受けなさい」

といわれ、十次は「千万の空言、一の実行に如かず」と、明治十五年八月

一年前に結婚したばかりの妻を連れて岡山の地を踏んだ。岡山県甲種医学校

(岡大医学部の前身)に入学し、岡山市内のあるキリスト教会の片すみに住

んだのだった。

女巡礼から子預かる

人間的な悩みを内に秘めながらも、十次は母から与えられた言葉を忠実に

守っていった。「当たって砕けよ」学生の身でありながら、故郷宮崎に

「馬場原教育会」を設置、学生の読書指導をし、また岡山ではアンマ業も始

めた。そして明治二十年、邑久郡大宮村上阿知(西大寺上阿知)で医学実習

中、女巡礼から預けられた子を引き取って、育てることになったのをきっか

けに、岡山市門田屋敷の三友寺に「岡山孤児教育会」を設立した。」

同時に宮崎県茶臼原の未開地を買い、ルソー著書「エミール」に結実させた

自然主義教育法の実現へ一歩を踏み出した。彼はルソー教育を理想と信じて

いたのだ。

ひたすら祈りに

「先生、もうお米が少ししかありません。これではこどもたちにオカユを

食べさせるよりしかたがありません。」

保母の言葉が響いてきた。「なんとかしなけれな・・・」岡山市門田屋敷、

三友寺の孤児院裏の墓場に一人ひざまずき、十次はひたすら祈った。

創立当時、孤児院は「孤児教育会」の会費で運営されていた。

しかし、会員である「人間」を頼ることは、神への信仰と矛盾する・・こう

気付いた十次は、孤児院へ戻り、鐘を鳴らして約六十人のこどもたちを呼び

集めた。そして、「どうか、オカユだけで辛抱してくれ。いまは辛いだろう

、だが、神様は・・必ず私たちに恵みを与えてくださる。」そう告げるのだ

った。

コレラでこどもを数人失い、続いて妻をも失いながらも、「岡山孤児院」

はしだいに大きくふくれあがっていった。山室軍平と知り合うきっかけに

なった明治二十四年の濃尾大地震では、孤児になった、九十三人のこどもを

引取り、孤児院内に私立の小学校をつくった。

皇室からのご視察も

やがて、十次の名は全国に知れ渡った。皇室をはじめ、伊藤博文や文部大臣

らが続々と孤児院を視察した。財政的には大原孫三郎らが援助した。

孤児院のこどもは年ごとにふえ、約三百人をこえるほどになった。

明治三十八年秋、東北、北関東地方は大凶作のうえ大雪に見舞われた。

こどもを捨てたり、売ったりする農家が続出した。

見かねた十次は、こうして孤児になったこどもたちをつぎつぎに収容した。

そして、最後には千二百人のこどもたちを収容できた、大規模な救いの砦

が、岡山の地に出現したのであった・・・。

そして・・今

天は父なり、人は同胞なれば、互いに相愛すべきことなり

十次が生涯のモットーにした言葉を刻んだ石碑が、十次の胸像とともに岡山

の町はずれ、瑜伽山頂きに立っている。

市民は十次の功績を讃えて、石碑と胸像のほか、「岡山愛児園」を復元して

「十次館」と名付けている・・。児童福祉の父、石井十次記念館である。

  【人物おかやま一世紀 朝日新聞社】より 昭和42年

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional