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山田 耕筰

令和二年九月

つい、一週間ほど前には空に浮かぶ「入道雲」に夏の名残を感じておりまし

たが、台風一過、流石に朝夕は少しばかり「秋風」らしきものを感じる様に

なってきたでしょうか・・・心なしか「初秋」の気配の足音が聞こえてくる

ようにも感じられます。何か・・待ちどおしく思われます。


「岡山の秋」は厳かで、美しい・・荘厳で、深く語りかけてくる・・。

そして、浅はかではなく、落ち着いた思惟に満ちている。

この土地を訪れる人々もそうだ、岡山の土地に眠る情念の響きに心魅かれ、

その呼び声に魂は呼応する。岡山とは、不可思議な土地である。長い間この

市(まち)に暮らしながらも、尚「不可思議」の感は尽きない。

それは、「三世」の中を・・動かずして動き・・止まらずして止まっている

かのようだ・・・。


さて、今月(9月4日)岡山にゆかりの深い作曲家「山田 耕筰」の顕彰碑

が石関町の旭川沿いに建立された。これは御津高校(岡山市北区御津金川)

の同窓会組織・交友会が同校の前身にあたる「養忠学校」で学んだ耕筰の

生誕130周年を記念し、学校跡に近い石関町の旭川沿いに建立された。

耕筰は生れは東京だが、その生活は苦しく、母は病気、父は亡くなった。

彼自身は豆腐屋で働いていた。姉の主人が岡山の六高で教師をしていたため

岡山へと呼びよせた。

耕筰はこの地で初めて、ベートーヴェン・シューベルト・シューマンなどの

音楽にふれることが出来たのだった。耕筰の通っていた当時の養忠学校は

現在の県立図書館(丸の内)にあった。彼は後楽園の付近を毎日散策した。

彼の後の名曲「中国地方の子守歌」「この道」そして「赤 とんぼ」はみな

岡山での思い出なのだ。

彼は後に、「ぼくの、音楽の開花した土地・・それは、岡山なんだ。」

そう述懐している・・・。


除幕式当日は関係者約30名が出席した。私の父も出席させて頂いた。

地元紙「山陽新聞」の方もお越し頂き、翌日9月5日朝刊には、大きく

掲載された・音楽会の先駆者  山田 耕筰ゆかりの地である。


山田 耕筰が散策した、この旭川沿い・・後楽園付近。ここは、観光地とし

ても、もちろん名の知れた場所であるが、深い思索への道しるべでもある。

岡山人の身も心も潤し続ける「旭川」、共通する思い「後楽園」・「岡山

城」・・それらは単に目に見えるすばらしさ・・というだけではないだう。

そこから伝わってくるのは・・奥なる自然界・・・土地からの、呼びかけ、

招き、なのかも知れない。


耕筰の才能が開花した土地・・・

岡山県・・その魅力は広くて深淵なものだ。人々は厳粛ではあるが柔和だ。

土地は歴史と思い出を大切に扱いながらも、新たな息吹を、心ひそかに期待

することを忘れてはいない。

忍従の中にも、培ってきた「智慧と力」を「育成する心」へと託し、保ち続

けてきてるのだろう・・・。それはまた利他教化の心・・でもあるのだ。

                  南無阿弥陀仏

立位南無 薄みどり (566x800)

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