生のさなかにも

生のさなかにも

独生、独死、独去、独来。(どくしょう、どくし、どっこ、どらい)

独り生まれ独り死す、独り来りて独り去る。   -大無量壽經ー

   
まぁ、これは経典の中の言葉なのですが、独り生まれ、独り死ぬ、は成る程

その通りだと思う。けれど、独り来りたこの世もその道中には家族もいる

友人も出来る、たくさんの人々とも知り合うだろう。独り来りて、独り去る

との自覚も、少し寂しいのではないのか、とも思えてきます。


けれど・・この地上、見つめれば見つめるほど、人間は所詮(孤独な旅人)な

のだと理解できます。百人の友人と共に居ようと、千人の集団の中に属して

いようと(独りの人間)であることには変わりありません。

最初の一歩も独り、なら最後の一歩もまた独りです。


結局、唯独りで、道を往く旅人の姿、これが人間の姿なのでしょう。

けれど・・自らが独り道往く者であると気づいた時、孤独なる者、の独は

独立したる者の独へと変わっていきます。独立者であるということ・・それ

は、自らが自らを受け入れ、比べるものなき自分を自覚した、真の人間の姿

です。彼は、他人(人)に頼らず、法(真理)に依ります。彼は、法に依る

がゆえに、真の自分を知ります。かれは、真の自分を知るが故に・・・

すべての人、あらゆる事象と和解しているのです。

福山市内海町

※今から六十年ほど前の話です。岡山県立金川高校(現在御津高校)に

 たいへん優秀な数学の教師がおられました。彼は京都大学を首席で卒業

 され、官公庁への就職も決まっていました。学生時代にはバレーボール

 の選手としても活躍され、周囲からも将来を期待されていました。

 その彼が卒業を目の前にして難病に侵されてしまいました。数日間に亘り

 高熱に苦しまれた後、彼の健常だった下半身は動かなくなっていました。


 就職を断念した後、昭和二十三年に彼は母親と二人で岡山県御津郡金川に来ました。

 そして、昭和二十六年に金川高校での数学の担任教師として生活し始めました。

 彼の授業はわかり易く、そして丁寧でした。教室のすべての生徒が問題

 を理解するまで彼は教えました。しかし、堅苦しいものではありませんで

 した。彼はニュートンやヘーゲルについての(楽しい)話もしました。

 生徒達は皆、彼の話を楽しく、そして真剣に聞きました。


 彼はたいへん人望があり、車いすで生活をする彼の世話をするグループ

 できました。彼はそうした生徒達と寝食を共にするように付き合いまし

 した。彼は、その頃母親と二人で現在も残る七曲り神社(金川)の近く

 に住んでいました。彼を慕う生徒と朝・夕の食事をすることもしばしばで

 した。食事は簡素なものでした。けれどそれは・・たいへん美味しいもの
 
 でした。 
 

 食事の前も後も必ず黙想と合掌をされました。そして、いつも言われる

 言葉が「お母さん、ありがとう」でした。彼のことを支えられている母親

 への心からの感謝の言葉でした。


 授業中といわず、食事中でも、時折彼は眼を閉じながらそっと左の胸に

 手を添えられました。それは「癖」のようにも思えました。

 或る日生徒の一人が彼の自宅に数学の問題を教えてもらいに行きました。

 その生徒にとっては太刀打ち出来ない難問も、彼にとっては簡単なこと

 でした。彼はにこやかな顔で生徒に回答を説明しました。

 そして、その時また左胸に手をそえるいつもの「癖」をするのでした。

 その生徒は彼に、その訳を問いました。すると彼は左の内ポケットから

 古びた一冊の本を取り出されました。

 それは・・・「新約聖書」でした。

 

 

 

 

 

                                                                                                      

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