正見寺 藤の会Ⅲ

正見寺 藤の会Ⅲ

2015-09-05 07

幾和の結婚

明治二十七年七月、豊島沖の海戦で国内が沸き立っている頃、幾和に縁談が

持ち上がり、話は進行した。納右衛門・ぎんに愛情深く育てられた幾和も十

九歳になっていた。花婿は薩摩半島対岸、大隅半島の松田慶助二十四歳であ

った。松田慶助は、明治十九年三月、岩川尋常高等小学校を卒業し同年四月

から二十二年三月まで地元の円泉塾に入り、漢学を納めた後、時代の先端

業務となりつつあった(郵便制度)岩川郵便局に勤務していた。当時の郵便

業務は現代の視点からすれば、「ロケットの打ち上げ」にも当たる、感覚と

頭脳を必要とするものだったらしい。しかし慶助本人としては、頼まれてし

かたなく携わっていたらしく、明治二十七年一月からは新事業(製糸業)に

従事していた。封建制度の崩壊は日本資本主義の興起を促し、動力は人力か

ら水力や蒸気に転換し、製糸業は養蚕や織物などから完全に独立分離するよ

うになるだろうと予見した。製糸業が世界市場に直結し、生糸が日本の輸出

の王座を占めるというのが彼の確信だった。そして岩川を引き払い、都城へ

出ようとしていた。藩閥意識が未だ強く尾を引いていた鹿児島県では、この

頃、故郷を捨てて出るなどということは、一大事であった。

岩川としても松田慶助の頭脳と人材が必要であった。漢学の素養もさること

ながら漢学で裏打ちされた気骨と侠気は彼の魅力で、彼を徳とする者が多か

った。それに、彼の父松田昌福の人徳が覆い被さって、岩川の松田は、岩川

になくてはならない人物であるとの観念が、岩川の人々の心の中に固定して

いた。大げさに言えば、岩川を挙げて、彼の都城転出に反対し、説得のため

に松田家を訪れた。しかし一度決めたらてこでも動かぬ信念、悪く言えば頑

固さが慶助の真骨頂であった。慶助を岩川に引き留める決め手として考え出

されたのが、慶助に嫁を迎えることで、大隅岩川の松田家にゆかりの深い、

薩摩古殿の鰺坂幾和が一も二もなく決まった次第である。

明治二十八年四月二十日、挙式は無事に終わり、鰺坂幾和は松田幾和になっ

た。

幾和が嫁いで来た頃、慶助は新しい事業の設立に目の色を変えていて、新婚

の妻をほったらかし、家をあけることが多かった。また家に人の出入りが絶

えまなく、幾和はこの対応に追われた。この頃の慶助の机上には、蚕業関係

の書物や六法全書の類が山をなし、特に九州の先覚者広池千九郎博士の名著

「蚕業新設製種要論」を座右の書としていた。慶助は広池博士の人と思想に

強い共感を抱いていた。

五月の末から慶助の都城通いが始まった。岩川から都城まで約二十キロ程の

距離だが当時は岩川から東に見帰に出、そこから北に山道を分け入り、鼻切

峠を越え、蛇行した山路を下って萩原川を越える可なりの険路であった。

慶助はいつもこのコースを日帰りの往復で繰り返した。

都城の町の西のはずれに構えの大きな農家を土地ぐるみ買い、隣接する納屋

を工場に改築、製糸機を購入、従業員の募集を始めるといった具合で、慶助

の決意は日を追って具体化して行った。この頃になると周囲も慶助を岩川に

引き留めることを諦めなければならなかった。最後の切り札のつもりだった

幾和が万事に夫唱婦随で、慶助のすることに口出しをしないばかりか、夫の

することは正しく、間違いはないと言わんばかりに、いそいそと協力してい

る有様では、もはや口出しをする余地はなかった。

幾和は生涯夫に従順で、生活のすべてを夫に捧げ、趣味、嗜好から物の考え

方までが夫に同化し、二人の関係は形と影、全く一心同体であった。夫婦一

体といっても、夫であり、妻であることをやめることではなく、また一方が

他方に従属し、犠牲になるのでもなく、お互いの人格を尊重し、認め合った

上での一体であった。このことはやはり夫婦の間に、幾和の信仰(信心)が

息吹いていたことによる。信仰(信心)というものは、いついかなる場合で

も、生活の炎の熱源であり、幸せの根元であるのだ。

明治二十九年四月、慶助はやっと操業にこぎつけた。従業員十二名というさ

さやかな家内工業であった。「松田製糸工場」という看板を掲げた。厚みの

松材に慶助が墨書きした長さ一メートルの立派なものだった。

慶助念願の「事業」の第一歩であった・・。

慶助・幾和の子供たち

この当時は坐繰製糸が一般的で、松田工場は、上州坐繰機を十基備えつけて

いた。これは焜炉の上に鍋をのせて煮ながら、木で作った小枠を、木製の歯

車のついた巻き取り機で、左手で回しながら、生糸を右手で引き出して巻き

つける方法である。その途中に毛髪の輪を置いて、これを通すことによって

生糸の抱合をよくしたのである。慶助は三十年末に、手回し機を足踏み機に

変えた。手回しから足踏みに変わるとともに、製糸の工程に更に多くの人手

を要することになり、事業が軌道に乗るにつれて、従業員の数も増えていっ

た。順風満帆にさらに追い風が強まっていった・・・。


慶助、幾和の間には六人の子供が生まれた。その内、一人は生後まもなく、

そしてもう一人は生後半年で亡くなった。成人したのは四人である。

長女が松田藤子(フジオ)、長男が昌海、次女がミツ、次男が昌守である。

長男昌海が、紅風の父であり私の祖父である。ひじょうに仲の良い兄弟姉妹

だった。藤子、ミツ、昌守、私からいえば実際には大叔母、大叔父にあたる

人たちだが、そんな遠い呼び名は無用の関係だった。この世に生まれてから

初めて接した、懐かしい、そして思いで深き叔母さん、叔父さんなのだ。

祖父昌海


祖父昌海が亡くなったのは、その年が明けてまもなくの、平成十一年一月

十一日の早朝のことだった。行年九十六才であったので、まず長寿を保った

といえるのだろう。若い頃、柔道で鍛えた肉体は小柄ではあったが、堂々と

したものであった。祖父とは同居であったため、子供のころから共に過ごす

時間が多かった。優しさに溢れた気さくな人物であった。そして、何よりも

祖父もまた「念仏の人」であった。暇さえあれば「なまんだーなまんだー」

と称えていた。真宗門徒のそれほど多くない岡山の地では、それは不思議な

姿に映ったかもしれない。しかし、祖父の姉も妹も弟も、そしてその家族も

皆が「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」があたり前のことであったのだ。

そして、紅風も私もそれがごく自然なことだと受け取っていた。

小学生の頃から夏休みの間などは毎日、祖父に仏壇の前に座らされ「勤行」

の手ほどきを受けていた。今思い出しても、不思議に思えるほど、作法に

精通していた。私の勤式作法はこのころ身についたものが大きい。正信偈・

和讃が主であったが、よく通る、澄んだ声であったと記憶している。

鹿児島からの・・先祖から受け継いできたものを、私にも伝えたかったのだ

ろう。

この昌海だが、念仏者であったと同時に西郷 隆盛を深く慕っていた。

岡山に生を受けた浄土宗の開祖法然、そして宗祖親鸞に対しての尊敬、敬愛

とは比べることは出来ないにしても、鹿児島人である祖父にとっては西郷は

慕うべき存在だったのだろう。西郷とともに生き、そして死んだ(昌海の)

祖父昌福の生き方と重なり、心に育まれていたのだろう。

私も紅風も子供の頃から、何度あの西郷の言葉を昌海の口から聞かされたこ

とか、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの

也。」 この始末に困るものでなければ・・と続くのだが、国家の大業は成

さぬにしても、一人の人間の信念としてはたいへんすばらしい思いがする。

ー命も、名誉も、金銭も欲さない人ーこれは本来の宗教者の姿であろう。

日本仏教の祖師たち・・みなこうした信念に生きた人たちではなかっただろ

うか。「無私」の心は偉大なる「事」を成就する。ただ政治家である西郷と

宗教者である祖師たちとの違いは、西郷は人間社会という目に見える世界に

理想を託し、祖師たちは「人間存在そのものの救い」に命をかけられた。

それは、「真の人間の幸福とは何か」という問題に帰着する。

だが、いずれにしても宗教の世界にも相通じる深い信念を携えた、西郷隆盛

という人物はやはり傑出した人物だったのだろう。祖父昌海がしつこい程に

この言葉を言い続けたのは、その無私、無欲の精神を尊んだからだろう。

県民性というのが、あるのか無いのかは私には分からないが、祖父は亡くな

るまで、「鹿児島県人」でありたかったのだろう。九州を去り、岡山の地に

来たのが大正十年、明治三十七年に生まれた祖父は十七才までは「九州人」

だった。ことさら「鹿児島の地」にこだわり続けていたのも「隠れ門徒」と

しての(信心)を保ち続けた祖父の母幾和の心と、西郷とともに西南の役を

戦い田原坂に散った祖父の祖父昌福の熱い心を、忘れるわけにはいかなかっ

たのだ。「思い」は深く心に刻まれていたのだろう。今思えば・・・だが。

この祖父の信条は「奉仕」であった。勲何等かを頂いた時の、人物紹介の欄

を見ると、信条「奉仕」としてある。「奉仕」とは、無私の精神だろう。

見返りを求めるのではなく、ただ無欲にして何かに仕え打ち込み、施すと

の気持ちだろう。この言葉を「座右の銘」として掲げる人は多いが、実行で

きる人は僅かではないだろうか。確かに祖父はその僅かの人の一人だったの

だろう。昌海と書き(まさみ)と読む。しかし本人は「ショウカイ」と名乗

っていた。

大正10年に都城の製糸工場を閉鎖して、岡山では技芸の実力を唯一の資本

として始めた造花製造業が松田家の生活の基盤であった。長女の松田藤子の

当時としては最高峰にあった学歴と学殖は女子技芸教育においても、刺しゅ

う、造花においてもいかんなく発揮され、生活の糧としても大きく役にたっ

たのだった。その後、これを商売として長男の昌海が引き継いだのだ。

また、小さいながらも職業訓練校なども始め、幾人もの弟子を養成していた

後に、長女の藤子の才能と精進が「学校」という教育の場で、津山市で開花

した時には、評議員なども勤めさしていただいていたようだ。

しかし、祖父もまた「仏教」から離れることは出来なかった。真宗門徒のそ

れほど多くない岡山の地で、出来うる限りの「仏教活動」をしたかったのだ

ろう。岡山は法然上人の誕生された土地・・浄土宗には「共生」の思想があ

る。小さいながらも「報恩共生会」という念仏を主とした会を設立し、寺院

参拝を有縁の方々と行っていたようだ。思えば、敬愛すべき人物であった。


そして・・昭和20年6月29日、岡山空襲の、あの日・・多くの人々が避

難するあの町で、一人、避難するを良しとせず、救済活動を続けていた祖父

の事は、私にとっても、紅風にとっても、「人生の支え」となっている尊い

歴史そのものなのだ。

                        南無阿弥陀仏   

祖父の姉弟

前述したが、祖父には自身を含めて四人の姉妹弟がいた。実際には六人とい

うことであったが、二人が夭折している。成人したのは四人である。

皆、仲が良かった。長女の藤子は弟たち、妹に対して、まさに母親そのもの

であった。私が実際に知っている藤子叔母(大叔母)は六十歳代以降であろ

う。津山の学校も軌道にのり、更に躍進している途中ではなかっただろうか

父の隼人も当時は高等学校の方に勤め(後短期大学・音楽大学)、親族皆で

学校に携わっていた頃であったと思う。祖父の弟昌守は副校長であり、また

武道にも秀でていた。柔道・空手・剣道・神伝流、合わせて二十何段であっ

た。教育者であると同時に柔道部の顧問などもしていた。叔父を慕う多くの

学生がいた。この叔父の葬儀の時、柔道の教え子であろう体の大きな男性達

の一団が、その巨体を震わしながら嗚咽していたのを、覚えている。皆に慕

われていたのだろう。松田家は島津藩にあっては、(表には)代々武道指南

役として高禄を食む家柄であった。その才は、この昌守叔父に大きく引き継

がれていたのだろう。この叔父の思い出を語ろうとしても、とても簡単には

記述しきれない。私にも、父にも、紅風にとっても、懐かしい思いで深き人

物である。彼は、兄である祖父に対しては、会えば必ず「兄さん!」と大き

な声で祖父を呼んでいた。その度に祖父は、こころから愛おしそうに、微笑

むのだった。妹のミツ叔母は技芸の教授をしていた。越前琵琶で大成し華道

茶道をも教えていた。姉藤子は三つ頃から琴と舞踊を仕込まれ、ミツ叔母も

やはりその頃から、琴と越前琵琶を教えられていた。姉藤子は舞踊に進み、

ミツ叔母は越前琵琶に進んだ。十七歳で五弦の免許状を取り法琵山旭琶の名

を師匠より授かった。芸術色の濃い人物であった。私が子供の頃、藤子もミ

ツもよく訪ねてきていた。彼女達が来るのが嬉しかった。家に帰り、冷蔵庫

を開けると、新聞紙に包まった、蟹、蝦蛄が入っている日がある。その日は

必ず、藤子叔母かミツ叔母が来る日だった。祖母がその日は岡ビルで仕入れ

た蟹、蝦蛄を冷蔵庫に保管しているのだった。藤子叔母が訪れた日には、祖

父昌海はひょっこり現れると「ねえさん!」と大きな声で呼びかける。

その顔は、愛おしい姉に会えて嬉しくてたまらない、「弟の顔」そのもので

あった。そしてミツ叔母なら「おお、ミツか!」と今度は可愛い妹に会えて

かわいくてたまらない「兄の顔」になっているのだった。

藤子叔母、ミツ叔母、昌守叔父、皆私にも優しかった。皆、私のことは

「もとちゃん」とか「もとぼう」とか呼んだ。「も」に妙に力が入っている

のが共通していた。鹿児島の方言なのだろうか、と思っている。

藤子叔母は弟である祖父をかわいがり、妹ミツ叔母、弟昌守は兄である祖父

を慕ってくれていた。ありがたいことである・・・。

最近、父隼人は思い出してはよく口にする「本当に・・仲の良いきょうだい

だった・・」そう、しみじみと言うのだった。
                        南無阿弥陀仏
                   
 

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