正見寺 藤の会Ⅱ

正見寺 藤の会Ⅱ

津山郊外

県北の四季の移り変わりは、ややゆるやかである。遅咲きの桜も、その華や

かな姿は役わりを終え、衆楽園ではサツキの花が園内を覆いつくす時期へと

時をゆだねていた。その月初めての「R」での昼食会をすることにした。

中国自動車道に近いこの店は、平日でも昼食時といわず、営業時間内は多く

の客が出入りする活気のある店である。パスタとピザ・・・実は通常なら、

私には縁のない料理だが、この日には有り難くいただくことにしている。

食事をとりながらの、ひとしきりの雑談を終えたのちその近くにある喫茶店

「K」へと場所を変えた。数冊の本、ノート、参考コピーなどの入ったカバン

を持ち込み、紅風と私は店の最奥の席についた。

私は、まず一冊の本を取り出した。「法灯永久に輝かん」-日笠 大二著ー

である。この本は紅風の叔母、私の大叔母である松田 藤子がここ津山市に

創立した学校の創立50周年(昭和55年3月31日)の記念企画のひとつ

として(昭和57年5月2日)に初版が刊行された書籍である。人生の大半

をこの学校に勤務した紅風にとっても、この書籍はかけがえのないものであ

り、懐かしき香を凝縮した珠玉の一冊でもある。懐かしき香・・それは私に

とっても同じ思いである。著者であるー日笠 大二氏ー 氏を直接知る紅風

によれば、広い額をされた学者肌の寡黙で温厚な人物であったとのことだ。

略歴によれば、大正二年安芸国宮島(広島県)に生まれる、とあり、現住所

は奥津町・・とある。この辺りに父と法務に出かける度に「日笠さんが・」

と氏を懐かしむ話をする。もちろん氏をよく知る、父にとっても思い出深き

方なのだろう。この氏が、昭和55年の8月から56年の4月末までの間、

直接何度も「鹿児島」を中心に、取材、調査したものを同年5月から8月に

書きあげたものが、この「法灯永久に輝かん」である。先の高祖父母鰺坂納

右衛門・ぎん、の話も史実をさらに検証し「信仰史」として再認識していっ

たものが今までの部分である。この書物は先の「隠れ念仏」の章から、西南

の役で西郷 隆盛とともに戦いそして散っていった、紅風の曽祖父、そして

私の高祖父、松田 昌福の章、松田 藤子の学生時代から教師時代、そして

学校設立までの足取り、信仰(信心)史、それらに関わる土地・人の章と大

きく分類されている。そのひとつひとつが、感慨深いものであることは言う

までも無いことだが、ここでは特に信仰(信心)の系譜について、深く味わ

ってみたい。今から三十年以上も前に刊行されたこの書籍は、私も何度か目

を通していた。もちろん数年前までこの学校に勤務していた紅風は、私より

はるかに内容に詳しかった。

紅風もバックから一冊の本を取り出した。やはり同じものだった。ただ私の

ものと違うのは、多くの付箋と書中に色づけられた無数の蛍光ペンのあとだ

った。思えば、そのはずである。在職中「今月の訓言」を書いていたのは、

彼女だった。

その日は、しばし、先の鰺坂納右衛門・ぎんの姿に思いを馳せた。薩摩にお

いて「真宗禁制」の時代、隠れ念仏として命がけで「念仏」を保ってきた先

祖、そして同朋・同行。彼らの恐るべき「覚悟」と「忍耐」によって信心は

守られてきた・・そうした感銘は、何物にも代えることが出来ない大いなる

遺産であると感じられた。

しばらくは紅風の現実の記憶もたどりながら、私自身も同居していた祖父母

から聞いた話を思い出し、しばしの間・・鹿児島を、「薩摩」を念じた。

気が付けば、もう店の外は日が暮れかけていた。自転車で通学する学生たち

の帰宅する時間であった。津山から岡山までは車で一時間半ばかりかかる。

もう、完全に冷めてしまっていたコーヒーを一気に飲み干し、紅風も私もそ

れぞれの家路についた。

幻の墓

舞台は薩摩から大隅に移る。昭和52年7月23日、記録的な暑さであった

というその日、日笠氏は岩川駅に降り立っていた。ご本人の表現によれば、

「一人の風来坊が岩川駅にふらりと降り立った。」とある。(こうした表現

が私はとても好きです。日笠氏の飄々とした精神性の高さを感じます。)

岩川を訪れた目的は松田 藤子の祖父、松田 昌福烈士の幻の墓の所在を突

き止めることであった。昌福の墓が岩川にあるという根拠になったのは昭和

41年1月1日付けの高校PTA新聞の中の「大乗仏教以前」の「藤子校長

先生のお祖父様松田 昌福(明治10年9月24日亡、行年24歳)鹿児島

県岩川に埋葬。忠魂碑がある。」という簡単な記事であった。松田烈士の墓

が岩川にあることは、昭和43年3月、修学旅行に生徒を引率して鹿児島に

行った松岡一良氏が、南洲神社参拝の際、当時の南洲神社宮司から聞いたと

いう。南洲神社境内には、昌福の長男幸内、次男佐五介、二基の墓がある。

末弟昌福の墓だけがなぜ、二人の兄と離れて岩川にあるのか。

明治10年9月24日は城山陥落の日で、この日に戦死していれば、当然兄

の二人とともに南洲神社の境内に埋葬されるべきではないか。行年も24歳

というのは、昌福の遺児の年齢から照合して不自然である・・・。

松田 昌福の疑点を解明し、なによりもまず墓所の確認をすること、それが

日笠氏の目的であった。

調査は始まった、駅前の広場が尽き、おお通りである国道269号線に出る

右側に大きな観光掲示ばんが立っている。いちばん目に付くのは官軍墓地で

いわゆる賊軍と通称される西郷方に従軍した将兵の墓地は一か所も示されて

いない。それは西郷軍の戦死者はほとんど鹿児島の南洲神社に埋葬され、こ

こには少数のこの土地の縁故者の墓地が散在し、しかもその血縁がこの土地

にいなくなって忘れられたためである。手がかりはここでポツンと切れた。


「がっかりした途端に、汗と疲れがどっと出て来た。日豊本線夜行急行列車

日南号の過剰冷房に痛めつけられたからだに、南国の太陽は容赦なくジリジ

リ照り付ける。九州の果てまで来て、分からなかった仕方がない、また今度

と引き下がるわけには行かない。日陰を求め、深呼吸を繰り返し、歩調を整

えて歩いた。」

そう記している日笠氏の姿が目に浮かぶようだ。南国のしかも真夏の灼熱の

太陽のもとに、帽子をかぶり、右手に持つ扇子で自らの顔を扇ぎ、左手では

大きく汗をかいた額を拭きながらも、さらに前進しようとする求道者さなが

らの氏の姿が見える。それは、名誉、権力、富のためでなく、ただ真実を求

めて歩もうとする純粋なる探究者の姿である。


日笠氏によって著述され、学校によって発刊された「この書」を手にとる時

紅風にとっても、私にとっても・・ただ、深い感謝の念に満たされることを

感じるのみであった・・・。

昌福(墓)との出会い


道で出会う人・・特に老人にはしつこく聞きながら歩いた。古めかしい構え

の旧家を訪ねて回った。この町の人は皆親切で一様に労を惜しまずに、中に

は風来坊を待たせておいて、近所に聞いて回ったり、電話してくれる人もい

た。この「岩川の親切」が風来坊の気力に火を付けた。

そうして・・「川崎 シマさん」に巡り合う機縁に恵まれた。

川崎 シマさんの口から、松田 昌福烈士の墓を突き止めることができた。

シマさんは、この無名の墓を、官・賊の区別なく、四季香華を手向けて温か

く守ってくださっていた。シマさんの頭の中には、官軍、賊軍のけじめはな

く、どちらも明治維新に殉じた憂国の士として、同列に受けとめられていた

これはシマさんだけではなく、風来坊が出会った人びとの感じや、町全体の

空気も、官・賊の色分けはなくなっていた。百年も経てば、官賊一視同仁も

当たり前と思うかも知れないが、西南戦争における岩川の戦い、これに先立

つ十年前の戊辰戦争の関川の戦いを調べるに及んで、岩川の人々の寛大さに

、九州人のさわやかさを覚えた。

少し、川崎シマさんについて語ろう。ここ岩川は、明治維新まで島津家の重

臣の一人で禄高七千余石の伊勢貞章が領主として支配していた。この領主が

岩川に来た時は、東条家に泊まるのが慣わしになっていた。シマさんはこの

東条家の出で、(昭和52年7月)満85歳であった。この高齢で、婚家に

来てから全盲になった嫁のノブさんを、まるで実の娘のように労り、ノブさ

んもシマさんを実の母のように慕っておられるのである。こうした心温まる

情景を目の当たりにして、風来坊は柄にもなく目頭を熱くした。また、シマ

さんは和歌をたしなみ、町の教育委員会の後援で歌集「大隅」を出すなどの

文化活動のかたわら、長寿会の副会長を勤め、会の重要な仕事の一つに西南

戦争戦没者の墓地の掃除や香華を怠らない。シマさんの和歌には西南ノ役に

殉じた将兵に捧げるものが多い。シマさんが昭和55年に満88歳を記念し

て出版した歌集「紅梅」の中から二首程紹介する。

一  西南の 役を経しより 百周年
         いまねんごろに  祭典あげられるー

ー  そのかみの 西南の役 しのびつつ
          清掃施し    榊そなえぬー

土地のなかで、土地とともに、穏やかにそしてしみじみと生きてこられたで

あろうシマさんの、静かに湧いてくる日々の思いが時を超えて伝わってくる

ようだ。

このシマさんの口から、松田昌福の幻の墓の所在を突き止めることができた

松田昌福の墓として教わったこの墓はその後大隅町役場住民課長吉田三郎氏

が調べてくださって、松田昌福のものにほぼ間違いないと、書面で連絡を頂

いた。わずか100年前の墓の主について、調査を重ねなければならないほ

ど、100年の時代は激動し、そこに住む人びとの転変もおおきかったので

ある。その後、風来坊は昭和55年9月23日に再び岩川を訪れた。八幡神

社宮司原田藤徳氏、郷土史研究家牧野瀬充氏の協力でさらなる確証を得た。

松田昌福烈士の墓は、官軍墓地の山手続きに三百メートルほど南寄り、町立

岩川小学校の上、旧郷社八幡神社本殿裏手の山腹にある。墓は南向きに草深

い山のふところに抱かれて、ひっそりと立っていた。七月二十三日の午下が

り、蝉時雨がしろっぽいささくれた墓石にしみ込むようであった。

松田昌福の生の有る日々、多情多感、火花のような華麗無比の人生ドラマを

繰り展げた烈士(三十四年)の灼熱の生涯が、この小さな墓石の下に封じ込

められているのだ。じっと見つめていると、今にも墓石を払って、墓穴から

現れるのではないかとさえ思われる。松田昌福の「動」の一生に比べて、こ

このたたずまいは余りに「静」に徹している。仰げば夏の空に、白い雲が

悠々と浮かんでいる。 雲よっ! 来たりて烈士の生涯を語れ・・・。

                   参照ー法灯永久に輝かんーより

松田 昌福

紅風の父、そして私の祖父である松田 昌海は、よく昌福について語ってい

た。そしてこの時必ず同時に語られるのが西郷 隆盛のことだった。

ひとしきり、西郷のひととなりについて説明した後、有名な西郷の言葉

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。

 この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成

 し得られぬなり。」で締めくくられるのが常だった。鹿児島人である祖父

にとっては、やはり西郷には特別の思いがあったのだろう。この、西郷を慕

い西郷と共に生き、そして「田原坂」に散っていったのが昌福であった・・

松田 昌福は、弘化元年(1844年)、父新助、母スエの子として岩川に

生まれ、岩川に長じ、34歳で田原坂で散った。そして再び岩川に帰ってい

たのだった。昌福の祖父嘉平次は、化政時代大隅一円に名の高い武士であっ

た。松田家は島津藩士であり、代々が剣術指南役として仕えていた。しかし

松田家もまた、先祖が動乱の世の無常を思い、一切平等と、世の安穏を願う

「親鸞聖人のみ教え」に深く帰依してしていたのだった。

思えば・・人生とは、人間の生涯とは、個人の意思に関係なく、気が付けば

そうなっていた、というのがほとんどだろう。人間とは一切が「宿業の渦」

からのみは逃れ得ないものなのだろうか。


西郷の思想には「敬天愛人」がある。幕末の儒者である佐藤一斉を西郷は尊

敬していたという。その佐藤一斉に儒学を学んだのが漢学者教育者の中村正

直である「敬天愛人」はその中村の言葉である。西郷の思想を感じさせる逸

話の中に(ある日、陸軍大将の西郷が坂道で苦しむ車夫の荷車を後ろから押

してやったところ、これを見ていた士官が西郷に「陸軍大将ともあろう方が

そのような姿を人に見られたらどうされますか」と忠告したところ、西郷は

憤然として「何を言うのだ、俺はいつも人を相手に仕事をしているのではな

い、天を相手に仕事をしているのだ、天に対して恥じることがなければそれ

でよい」と言い放ったといいます。)天を相手に仕事をする・・そして人に

は慈しみの気持ちを・・。こうした思想を、自己の信念として実践した西郷

の人格はある意味、宗教の世界にも通じるものを感ず。多くの人びとを魅了

したのもそのためなのだろう。義を重んじる、魅力的な人格であったことは

間違いはない。しかし・・「宿業の岸壁」はそれさえも阻むほど、暗く重々

しいものなのだろうか・・・。


明治二年二月十日、まるで足元から鳥が立つような慌ただしさで、昌福と

三坂きんの結婚式が行われた。きんが角隠しを脱いだ時、この二人は初めて

一生を共にするお互いの顔を見合わせた。その夜昌福が新妻のきんに言った

最初のことばは「わしのからだは西郷どんのものじゃ」だった。きんは呆気

にとらわれて夫と呼ぶ人の目を見つめた。

その年の十一月の末に長男昌孝が、四年六月に長女のナヨが、そして五年の

七月に次男慶助が生まれた・・・。

慶助は明治五年七月十日に岩川に生まれた。その日は朝からよく晴れ上がっ

ていて、南国の太陽がギラギラと輝いていたが、カラッとしたさわやかな一

日であった。「慶助」命名の由来はこうだ。昌福は男の子の生まれることを

熱望していたので、長男昌孝誕生には有頂天になって喜んだが、ナヨの生ま

れた時には「女子ん子か」といささか気落ちした表情で、産室から出て行っ

てしばらく寄りつかなかった。それが今度は二人目の男の子の誕生で、昌福

はきんの手を握って「でかした、十石ものだぁ」と喚き、生まれたばかりの

赤子を抱き上げようとして産婆にたしなめられた。「十石もの」というのは

戊辰戦争の論功行賞で賞典禄下賜の恩命があり、その一等が一か年十石であ

ったことによる。昌福のこの喜びに、祖父新助の「助」の一字をもらって

「慶助」と名付けたが、この「慶」にはさらにもうひとつの喜びが重なって

いた。慶助の生まれた明治五年(1872年)という年は、九月に新橋・横

浜間に鉄道が、東京・大阪間に電信が開通、十一月には太陽暦が採用され、

文明開化の花やいだ空気が全国を覆っていた。鹿児島県では、六月二十二日

から七月二日にわたって、明治天皇が九州に巡幸、世相の変転を特に強く感

じていた。昌福は天皇鹿児島行幸の時、臨月のきんを放っぽらかして鹿児島

に走った。当時は大隅半島横断の陸路と鹿児島湾の海路で、足の達者な男子

でも二日の行程であった。昌福は、鳳輩を鹿児島で拝跪し、天皇親政の聖代

を迎えた慶びに感泣した。慶助の「慶」には鳳輩を目の当たりにした感激の

慶びも含まれている。あるいはこの意味合いの方が濃いいのだ。

明治天皇を拝し、岩川にとって返した六日目の七月十日に慶助は生まれたの

である。

松田慶助、紅風の記憶にもある祖父であり、私の曾祖父である。


その夜、私は紅風と電話で話をした。「慶助」のことになれば、紅風にとっ

ては、歴史上の人物ではない。懐かしい祖父の姿が思いおこされる。豊かな

白い顎髭をたくわえた優しい眼差しが記憶に浮かぶ。-西南の役ーに話題が

及んだ。この、西南の役時代の話は、私も紅風も何度も聞かされていた。

ー西南の役ーについての歴史的な評価は別にして、我々の先祖がそこに深く

かかわり、「無私」の心をもって、西郷に従い、精一杯に生ききったのは事

実なのだ。歴史とは所詮は、「人の世」なのだろう。時が過ぎ、時が経たな

ければ、その全貌に触れることができない「人の世」なのだろう。いや、そ

れでもなをその本当の意味を知ることは難しい。差別動乱の「人の世」にお

いて、その価値を知るものは、ただ「人の世を超えたる世界から」において

のみなのだろう・・・。

鰺坂 幾和

私が子供の頃より、仏間には一組の夫婦の遺影が掲げられている。夫の方は

もう高齢といってよい年代だろう。大きく見開かれた眼は、何か威圧的な力

さえも感じさせる黒々とした輝きを発しているようだ。それに加えて、顎下

には胸元まで届きそうな、白く長い顎鬚がたくわえられている。慶助、六十

代頃の写真だろうか。その横に並ぶ、妻の姿。細面の儚げな眼差しをした、

気持ちの優しそうな女性が微かな微笑みを浮かべている。妻の幾和である。

私の曽祖母であり、祖父昌海の母である。(切れ長な目元が祖父とよく似て

いる。)そして、鰺坂納右衛門・ぎんの娘である。曽祖母幾和は納右衛門・

ぎんが結婚以来十六年目にして生まれた、初めての子だった・・・。


ぎんは、無心に眠るみどり児に優しく「幾和さん」と呼びかけていた。

九月二十四日城山陥落、翌二十五日鰺坂納右衛門は、島津久光に付き従い

鹿児島に帰り、磯の別邸まで随従、午後遅く別邸を後にした。帰心は矢の如

く薩南山地を西南に飛んだ。磯の別邸を出て真向かいに城山を望み、柳町か

ら市街地に入ると、市内は混乱を極めていた。甲突川までの市街の大半が、

灰燼に帰していた。黒く焦げた木々に烏が二羽三羽止まり、その向うには秋

の夕陽がかかっていた。振り向けば戦火の熄んだ城山の頂きに、薩摩軍団の

亡霊がさまようかのように、蒼黒い慕色が漂っていた。納右衛門は、念仏を

称えながら足早に甲突川に架かる西田橋を渡った。暮れなずむ静かな野面の

風景が、納右衛門の心を和ませ「幾和」と名付けたややの顔がいろいろに

想像され、思わずほおに笑みがこぼれた。わらじの向こうに、夜をこめて突

破する薩南の山塊に通じる野道が延びその彼方に高くたちはだかっていた。

納右衛門は屋敷に入り、旅装を解くと、直ちに産室に入った。

「生きとるばい」ー父納右衛門が初めてのわが子の幾和に言った最初のこと

ばがこれであった。ぎんの顔に微笑みが浮かび、やがて涙に変わった。

日頃、厳めしい夫の裃(かみしも)をかなぐり捨てた生の人間味に接し、

嬉しい気持ちが極まって涙に変わったのである・・・。

明治十年代の鹿児島で、女の子の名前に「幾和」という名は異色で、稀有で

あった。名前の語尾を「ぐり」で結ぶ「おぐり」「あぐり」が多かった。

「ぐり」は鹿児島では女の子に幸せを呼ぶ名前と伝えられ、そう信じられて

いた。「幾和」の名は稀なものであった。

幾和が最初に目にしたのは母の顔であり、最初に耳にしたのは母の子守唄で

あった。この子守歌が幾和の人間を形成していった。

母ぎんの子守唄は変わっていた。

念念称名 常懺悔  

懺悔が足らずば

悦ばれん

悦ぶ心を  当てにすな

当てにするのは

お勅命(ちょくめい)

勅命聞いたら 疑うな

疑い晴れたが 信心じゃ

信心一つで  まいるじゃない

まいるは  仏智のお働き


ぎんは幾和のつぶらな瞳をじっと見つめ、やさしい声とゆったりした節回し

で、幾和の童心にこの子守唄を吹き込んだ。子守唄というより御詠歌に似て

いた。

み仏との出会いと、出会いのためにその「み名」を称えることを教え、信あ

る者は必ず救いとるというみ仏の大慈悲が説かれている。

「親の愛というものは、出来の悪い子、不幸せな子、病弱な子ほど可愛いも

のだが、それは打算ずくでできることではない。愛するわが子のためには
 

身命を抛っても惜しみないのが親の愛である。慈愛に満ちた母親は、自分

のすべてを捨てて、わが子の中に生きようとする。その母親は、既に我を

超えている。この慈悲の極致こそ、仏の慈悲に通じるものである。」

ぎんは幾和の中に己を見出し、幾和と一体となった己れを見、み仏の知恵と

慈悲の光に包まれているのを感じた。幾和の仏心はこのようにして育まれ、

物心つく頃から、言われなくても仏壇の前に座って手を合わせ、念仏を称え

る子になっていた。

                  参照ー法灯永久に輝かんー

             
       

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