掲示板(新12月)

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五濁

五濁(ごじょく)の海は、荒くとも・・・  ですね。

五濁とは読んで字のごとく、五つの濁った様相を意味します。

その五つの様相とは、劫濁(こうじょく)見濁(けんじょく)煩悩濁

(ぼんのうじょく)衆生濁(しゅじょうじょく)命濁(みょうじょく)

なのですが、これは本来(末法)と重ねて考えられていました。

時代に起こる汚れ、誤った思想・見解、煩悩が盛んに起こること、心身が

弱くなり苦しみが多くなること、人間の寿命が短くなること、をそれぞれ

示唆しています。仏教用語なのですが、こうした末法の世を意味する言葉

として「今・現在」の苦悩の群萠を携える、人間の世界の有り様をそのまま

いい表しています。

親鸞聖人はそのご著書「教行信証」において「海」という言葉を頻繁に使わ

れておられます。一乗海・願海・大信海とか難度海・無明海とか、その

(法)と(機)との例えとして、多数使用されておられます。

聖人にとって「海」とは、「行巻」に述べられているように、「久遠より

このかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙

万徳の大宝海水と成る、これを海のごときに喩ふるなり。」という場であり

ます。愚かな者や聖者が修めてきた自力の修行や善である川の水を変え、ま

た、五逆の罪を犯したり、教えを誹謗したり、仏になる因のない人がもって

いる、数知れない無明の海水を変えて、本願の広大な慈悲と智慧の真実、

つまり数知れない功徳に満ちた広大な宝の海水に変えてしまうから、これを

海に譬える・・・。宗祖の思いの一端を察するに、宗祖にとっての「海」と

は、五濁の世の中で、五濁の世であるがゆえに、(機と法)が一体となり

成就することの出来る、「大いなる可能性の場」でもあるのでしょう。

今月の言葉は、(・・荒くとも・・不動の信念我にあり)と続きます。

その様な世であったとしても、この荒れ狂う海の様な世を生きて行く中で

決して壊れることのない「信念」がある・・。その信念とは、即ち「念仏」

のことなのです。更にこの言葉は「静寂和敬の精神(こころ)には、さへぎ

る波もあらじかし」と続いていきます。「信心の智慧」を保たして頂くこと

によって、荒ぶる波は消えずとも、届くことのない「寂静」の世界が訪れ

て来る・・。実はこの言葉は、岡山県の津山市にある、「大乗仏教を建学

の精神に置いた」高等学校の校歌の一節なのです。この学校を創設しました

大叔母の松田 藤子は西本願寺に僧籍を持つ真宗僧侶でもありました。

当時学校にはたいへん詩才豊な国語教師がおられました。その方に大叔母は

信念を託して、共に作詞されたのがこの歌詞なのです。父もこの言葉に昔よ

り感銘を受け、様々な座で紹介をしております。そして、この言葉は私のと

このお寺の「訓言」でもあるんです・・ね。

                        南無阿弥陀仏

お坊さん2

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