夢二が行く~ボヘミアン

夢二が行く~ボヘミアン

人間らしく

 令和5年1月

ここに写っております、夢二・・竹久夢二の写真を見つめていますと、何か

わたしたちに向かい、穏やかに、そして愛しそうに微笑んでいるようにも感

じます。

夢二は郷土岡山が生んだ代表的な芸術家であります。夢二の作品はもちろ

ん、彼の人生そのものにも魅惑されます。夢二が誕生したのは岡山県の東

部、邑久郡邑久町(現在瀬戸内市)の静かな村です。現在でも彼の生家は残

っています。元は造り酒屋であったとのことです。

本名を茂次郎(もじろう)と言います。

  花のお江戸ぢゃ  夢二と呼ばれ

    故郷(くに)へかへれば  へのへの茂次郎

東京では「竹久 夢二」として、有名になった彼も、故郷へ帰省すれば、誰

もが(おい、もじろう)と気安く声をかけたのでしょう。そんな故郷の人た

ちの遠慮のない親しさを、苦笑しながらも、懐かしく、そして嬉しく感じて

いたに違いありません。


竹久夢二、明治十七年九月一六日に、邑久町穀倉地帯の東端にある佐井田村に

生を受けた。夢二の画才は明徳小学校時代から芽生え「モーさん、わたしの

絵を描いてよ」と女の子たちにせがまれていたという。

鉛筆や炭を手にもつと、酒倉の壁、近所の高島神社拝殿の板戸、民家の石が

きなど、ところかまわずに、動物の絵や(おかっぱ頭の女の子・・へのへの

もへの)をかきなぐった。叱ろうとした大人たちも思わず感心するほどの出

来ばえであった。隣村の邑久高等小学校へ通い始めた頃には、出征(日清戦

争)する村の青年には七五調の軍歌を作っておくっていたという。

(お調子者で移り気な少年)であったという。

しかし、(移り気な)性格の内側には繊細多感な感受性が秘められていた。

生家に残る柱に左文字でしるされた「竹久松香」の落書きは、夢二が邑久高

等小学校を卒業する数か月前に書かれたもので、嫁に行った姉、松香を思い

出しては、その柱の下にしゃがみこんで、涙ぐんでいた、というエピソード

が村人の間では語られていたという。

 明治三十二年、夢二が邑久高等小学校を卒業した三月、一家は田地、屋敷

のすべてを売り払って、九州八幡へ移った。父菊蔵の計画は思うにまかせ

ず、夢二は姉松香の嫁ぎ先である神戸にひきとられ、神戸一中に入学した

が、明治三十四年に上京し、早稲田実業へ転学した。肩身の狭い寄宿生活の

中・・ただ一つのうるおいがスケッチだったのだ。明治三十八年六月、夢二

に幸運が飛び込んできた。当時の流行雑誌、ふたつに夢二の絵が採用された

のだった。ひとつは社会主義機関紙「宣言」の二十号。もうひとつは博文館

の投書雑誌「中学世界」の夏季増刊「青年傑作集」である。夢二はこおどり

した。「中学世界」に掲載されたコマ絵は、(肩を組み、海をながめる少年

と少女)が、描かれており、評には「形をこえて感情の声が流れ・・ここに

は古いものを大胆に否定した新しい創造がある。」とほめたたえていた。


岸たまきとの出会い

明治三十九年、尊敬する二人の画家から、次世代の担い手として期待される

中、一人の女性との出会いがあった。“夢二式美人″の最初のモデルとなる

岸たまき、である。金沢から上京してきた、若く美しい未亡人が絵葉書屋を

始めた、その評判通り、「まつ毛の長い大きなひとみをもった、たまき、は

情に流されやすい夢二の心を簡単にとらえてしまったのだ。

 この出会いで、夢二は心の中に夢想していた美女の定型を発見した。

恋心を燃やしながら、さらに情感を加え、時代の中の新しい美女として

偶像化されてゆき、理想の女性像(夢二式美人)の原型をつくりあげたのだ

った。明治四十年一月、夢二は結婚した。夢二二十二才たまき二十四才のと

きである。一月二十二日の「平民新聞」には、二人の結婚が報じられた。

夢二が風刺画、詩、俳句を寄贈していたからである。当時の夢二には漂浪、

自殺、恋愛、自由がなんの疑問もなしに同居していたと言われていた。

夢二の平民新聞へ傾けていた情熱は「中学世界」「婦人世界」など当時人気

のあった大衆雑誌へ向けられていった。

流れるような、詩のある絵、と恋女房がの、夢二式美人は夢二を時代の寵児

にまつりあげた。

 同年、大逆事件がおこり、平民新聞で共に仕事をしていた“幸徳秋水”ら

十二人が翌年一月には死刑になったが、夢二はもう社会主義のことなど忘れ

、挿絵画家の仕事に没頭していた。大衆が要求する、美人画、詩画創作の

情熱へと変化していた。大正元年十一月二十三日、京都岡崎で開かれた夢二

の第一回の個展は、どんな展覧会も及ばないほどの人気を集めた。

夢二の全盛期時代であった・・・

   やるせない  釣鐘草の夕の歌が

      あれこれ風にふかれてくる

    待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき

        「おもうまじちは思えども」

  われとしもなきため涙  今宵は月も出ぬそうな

  
     

宵待草」の原詩もこの年に発表され、詩人竹久夢二の名声はあがっていっ

たのだった。細長い首の上のウリザネ顔に大きなヒトミと小さな口、腰高に

結ばれた長い帯をか細い身体にしめつけた、はかなげな女性を描く夢二は、

大正時代を風びした大衆あこがれの人気スターだった。

笠井彦乃との恋

恋女房たまきとの情熱も次第にうすれ、ふらりと旅に出ることの多くなった

夢二の周囲には、いつも若い女性の歓声とため息があった。大正三年九月、

夢二の詩画を売る趣味の店「港屋」が日本橋に開店、連日、夢二を慕う若い

女性ファンが詰めかけるという繁盛ぶりであった。“悲劇の恋人"笠井彦乃も

、そんなファンの一人だった。大正四年、もうお互いに傷つけあう存在でし

かなかった、たまき、との仲を清算して一人となった夢二は、同五年から八

年まで、彦乃との京都生活に残り少ない青春の血を燃やすのだった。

二人の仲を引きさこうとする当時の家族制度や道徳観に背き、子供つれの男

にささげる彦乃の一途な慕情は、夢二がこれまで求め続けて得られなかった

すべてだったのだろう。

花をたずねてゆきしまま    かえらぬ人のいとしさに

おかにのぼりて名をよべば      幾山河は白雲の

          かなしや山彦かえりきぬ

 彦乃との恋に燃える前後の約五年間に、夢二は何十という絵入歌集、絵入

文集を出している。彦乃とのことをうたいあげた「山へよする」を頂点にこ

のころの夢二は絵よりも詩や歌で自分の心を表現しており、画家夢二の復活

は彦乃が去った大正九年ごろからである。

 大正七年春、むりやり、東京の実家へ連れもどされた彦乃はそれから一年

余りして肺結核でなくなった。二十五才であった。夢二三十五才の時である

欧米から失意の帰国

彦乃の死、により「生きたしかばね」となった夢二だったが、人気は衰え

ず、放浪で立寄るあちらの町かど、こちらの温泉街に女性とのうわさは絶え

なかった。情にもろく、やさしい夢二は女性の情熱にひきずりこまれること

も多く、うわさの半分は本当であり、半分はゴシップだった。

大正十二年の関東大震災を機に、「画家として後世に残るもの」を求めて、

絵画的工夫の深さを追求し始めた。昭和、五、六年に発表された「立田姫」

「青春譜」「旅」など一連の作品では、持前の憂愁甘美な抒情にひょうひょ

うとした人生の語らいを加えている。

昭和六年五月、欧米へ「詩画の放浪」に旅立つ。しかし同八年九月、身体の

に変調をきたしての帰国であった。そして、信州富士見高原の療養所のベッ

ドにふしたまま約九ヶ月、昭和九年九月一日未明、窓辺に流れる星明りにい

だかれながら、眠るように死んでいったという・・。夢二が最後にみた初秋

になりかけた、高原の星空・・それは生まれ故郷の岡山県邑久町の澄み渡っ

たあの星空に、或いは重なり合ったかもしれない。最愛の女性であったと言

われる彦乃を失ってから十数年の後のことであった・・・

  参照【人物おかやま一世紀】朝日新聞社 昭和42年


十代の時、岡山市内に住んでいた頃、母は無類の夢二ファンであった。自宅

の一室を小さな展示場の様に改装して、夢二画の複製を買い集めては画廊さ

ながらにしていた時期があった。毎日がほとんど「夢二画」に囲まれての生

活であった。夢二の描いた「女性」は、じっと見入っていると異界の住人

に、魅了されるかのような「寂寥の空間」へと引きずり込もうとする、魔性

の力を秘めていたものたちであった。

『芸術的感性』は、宗教の世界と違って、必ずしも内外何れかの“健全

美"に溢れたものばかりではない。

それでも尚、人はそうした魔性へと惹かれてしまうことがある。そこには、

手放しで(見入る)ことの出来ない「魔界」というものも、確かに存在する

のだろう・・・

                南無阿弥陀仏

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