ケイジ板5月

ケイジ板5月

闇ふかくして
令和二年五月

新緑の五月です。岡山の自宅から赤磐のお寺へと向かう県道96号線。

東岡山駅を横切り、土田を過ぎ、観音寺方面へと向かいます。坂道を上り、

そしてゆるやかに下りながら、道は続いていきます・・・。

先月、四月の初め頃だったでしょうか、その日も、まだ少し肌寒いものの、

好天の一日の始まりでした。聞くとはなしに、たまたまスイッチの入ってい

た車内のラジオに耳を傾けていました。その日の話題のひとつは、前日の、

今年度最大の満月「スーパームーン」についてでした。インタビューを受け

ていたのは、湯郷の旅館の女将さんです。アナウンサーの方との軽妙なや

りとりに、しばし聞き入っていました。「ス―パームーン」自体は、過去に

観たことがあるような、無いような、あまり、意識して観月した記憶はあり

ませんでした。それよりも、岡山からは少し離れた県北の方とアナウンサー

の方との会話・・・・に少し気持ちをうばわれつつありました。「番組」

は続いて行きます・・やがて、視聴者の方からのハガキが読み上げられます

良い、内容でした。投稿者の方が、或る日お仕事から、戻られると、その

投稿者の方が八十代の母親に「おかえり、まるで・・戦争中の様だね」

と言われた言葉が印象に残った・・という内容のものでした。


もちろんこれは、現在の、ウィルスへの恐怖の中、今日無事に戻ってきてく

れたことへの「安堵の思い」・・・そして七十五年前の戦争を体験されたで

あろうお母様は、その時の記憶が蘇ってこられたのでしょう。

それだけ、今尚収束の見通しがたたない、今回の状況は、当時にも重なり

合っているのでしょう。ハガキのコメントが読み上げられる中、リクエスト

曲が流れて来ました・・・

良い音楽でした。今一度、ラジオに聞き入ってしまいました。ここ数年、こ

んなことなどめったにないのですが。初めて聞く、女性の歌手の方の声であ

りました。(私が知らないだけだけでしょうが)

その声・・はまるで、先ほどの「スーパームーン」の姿と、共演する煌めく

無数の星々、まるでその夜空に向かって手を差し出して歌い、それに応える

星の輝きを・・地上へと贈ろうとするかの様な・・そんな声でした。

湯郷の女将さんとのトーク、満月の話題、投稿されたハガキの内容、そして

そのすべてを包みこむかの様な、「この曲・・声」・・まるで一瞬の幻の

ように、現れ、消えていったのでした・・・


普段なら、数台の前後方車に挟まれての走行路ですが、不思議とその朝は

私の車一台だけでした・・お寺には意外と早く着いたたのでした・・・。

お寺に着くなり、RSKラジオに問い合わせ、先ほどの「曲」そして「歌手」

の方を尋ねました(普段はこんなことなどしないですよ)。丁寧に教えてく

ださいました。

それは、私にとっては、初めて聞く名の方であり、曲でした。

「半崎 美子さん」という歌手の方の「明日を拓こう」という曲でした。


こんな折、ラジオから聞こえるアナウンサーの方の、落ち着いた声の響き

歌手の方の尊き歌声・・人々が・・不安・・恐れ・・の最中に在る時も、

耳に伝わる、揺るぎのない声は、我々をして、限りなく寂静の世界へと

引き戻し・・そして、落ち着かせてくれるのものですね!。


さて、5月の法話ですが、
 
   闇深くして光輝き 業苦重くして念仏となる

なのですが・・・まず「仏教」において「光」・・と言われるもの・・それ

はおおむね「智慧」のことをいうわけです。智慧・・とは、物事の「本質」

「真理」を明らかに見抜き、正しい道理を見極め、迷いを越える・・・

「正しい妙理の力」を意味します。


「闇」は・・「光」の無い世界・・であると同時に「光」を生み出す母体で

あるともいえます。「闇」は、物事の道理が分からず、正しい法則が分から

ず、「迷い」の中に在る世界そのもの・・とも言えるわけです。けれども、

この相反する世界は別のものでは、ないわけです。「光」である「智慧」

は、「迷い」の世界である「闇」を知る心の中にこそ、「輝く」わけです。

「深い闇」は、そのまま、「智慧」である光、に照らされた時・・そのまま

が大いなる光へと転換されるわけです。そして、「業苦重くして念仏とな

る」ということですが、まず、私たち「人間」というものは「業」という、

生まれながらに、持っている・・(煩悩)を原因として(身・口・意)に

よって行為として行われた(蓄積)・・があるわけですね。


「人間」とは、その「業」とともに生きている存在、といってもいいかも知

れません。そして、その(業)は、私たちの人生に様々な形で働きかけ、そ

のほとんどが、「苦しみ」として様々な事態を呼び起こすわけです。

この場合・・・「宿業」、といった方がわかりやすいかもしれませんね。

そして「念仏」となる、ですが、念仏とはもちろん「南無阿弥陀仏」です。

仏様からの・・そんなわたしたちを「救いたい・・救う」、との願いの呼び

かけです。私たちが「苦しい時」・・「救われたい時」・・称える・・

この「南無阿弥陀仏」・・は「業苦」の中に私たちが在る時・・そのままが

仏様からの、わたしたちへの「呼びかけ」なのですね・・

それは、「」となって現れるわけです。この「仏様」は「」となっ

て、私たちの、目の前に出現するわけです。「お念仏」が・・・

如来 招喚の声」、と言われるのは、

実在の世界の仏様が、声となって」私たちに、現れるからなのですね。

「闇」のなかにありし時・・「闇」を破する「如来の名告り

お念仏・・ですね。

                   南無阿弥陀仏

立位  紫 (566x800)

powered by Quick Homepage Maker 4.91
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional