掲示板(N12月
掲示板(N12月
先月の終わり、友人と広島県の尾道市に行ってきました。尾道は私の祖母の
故郷でもあり、幼少のころから度々訪れていますので、私にとっても故郷と
同じなのです。改めて周りを見渡してみますと、流石に数十年の記憶を辿る
中、海岸沿い、向島行きフェリー乗り場付近などでさえ大きく変化している
のが感じられます。この街の歴史の姿は美しさと優しさに包まれながらも穏
やかに変わってきてはいます。けれど・・変わらないものがあります。
それは・・この街の「香」、かおりでしょう。目を閉じるとうっすらと嗅ぎ
とれる潮の香の中に、この街を愛した過去、現在の懐かしき人々が遊歩して
いるのが思われます。そこには若き日の芙美子さんや志賀直哉さん、芙美子
さんの学生時代この街におられたというへごさんというお坊さん、あるいは
小林和作さん、こういった方々が、いまだこの街を遊歩しておられる・・
そんな思いが浮かんできます。いえ、本当に、彼らは今も街にとけこみ、
街の一部となって、訪れる人々に微笑み、温かく抱こうとしてしているので
しょうね・・。
この日の目的は、毎年恒例行事のひとつ、友人との「尾道海鮮問屋」巡り
だったのですが、いきなり目的の店に着いたため、次に入った店とで、おお
よその買物は終わってしまいました。-お好み焼き店ーでしばし時間を過ご
し、その後向島へと渡りました。久々に眺める「尾道大橋」からの景色も
懐かしいものでした。尾道水道を眼下に見下ろし、ゆったりと走り行く大型
船に目をやれば、そこにもまた変わらないこの街の風景がありました。
向島(むかいじま)もまた、懐かしき場所です。
12月・・晩秋から初冬にかけての海辺が好きです。特に「備後」と呼ばれ
る地方の海辺が好きです。幾たびも、幾たびも師走近づく海辺をさすらった
記憶のせいでしょうか。刻一刻と近づいてくる年の瀬に、一年の終わりと
新しい年への期待が混じり合う人々の心の想いが、波音の調べとともに伝わ
ってくるかの様です。また、別の「備後の海」では、この時期になると近海
の魚の一夜干しが海岸沿いに吊るされ、その銀色の光を鮮やかに放ち出しま
す。寒さの中に温かさを蓄え、漁師さんたちは真冬の風物詩を描いていきま
す。この海もまた、すばらしいものです。
しばし、尾道での「時」を味わった後、我々は東へと向かいました・・・。
ー今日も 人の死ぬる日にて候ー
仏教では「人生は苦である」と説きます。これは四諦(苦諦・集諦・滅諦・
道諦)と呼ばれるものの一つ、苦諦に由来するものです。「人生は苦」
とは釈尊の人生観の根本命題であります。我ら人間、その存在の中核こそ
「苦」であります。その具体的様相を表すものこそ「生・老・病・死」の
四苦であります。生まれる苦しみ、老いていく苦しみ、病むという苦しみ、
死の苦しみ。これらの苦しみに決定づけられているのが人間というものなの
でしょう。「死の苦しみ」は誰一人避けることの出来ない大きな苦しみです
ここからは、誰一人逃れることはできません。人の世の、悲喜劇も帰着する
とこは、この「死」の文字であります。-人の死ぬ日にて候ー。その時
死ぬ人、とは誰か。ひと(他人)ではありません。死ぬ人・・それは私自身
なのです。領解すれば、それは、私自身の今日一日への「覚悟」を知らしめ
てくれます。時、は過ぎます。生きている、ということは、死につつあると
いうことなのでしょう。明日、はわからない。尊敬すべき知識たちは「仏法
者に明日という日はない」と戒められ、また「死ぬ日には死ねばよい!」と
人生随順の覚悟を喝破されました。本当に・・こうした言葉だけが「宿業」
から逃れられない私に「超える道」のあることを伝えてくれる・・・
のでしょうね! 南無阿弥陀仏