人生はサーカスⅧ

人生はサーカスⅧ

尾道水道

自らの「今生は」などと・・思い・・ちょっと振り返って見た時に、どうも

「旅」はこの尾道から始まっているようだ。いかなる記憶の中にも、その最

も深い所にこの町は存在している。ある年代になってからは、実際にはそれ

ほど頻繁に訪れていたわけではない。それでも尚、事あるごとに、それは

「蜃気楼」の如くに忽然として心に浮かび上がってくるのだった。まさか、

すぐ隣の福山に、ある時期だが、住むことになるとは思いもよらなかっ

た。心のどこかには、常に「西」を想う気持ちが隠れていたのだろう。そ

の「西」とは、、わたしにとっては、この「尾道」なのだ。この・・備後な

のだ。


さて「安芸門徒」という言葉があるが、『これは一般には安芸国(広島県)

西本願寺門徒の総称、とされている。北部地域と中・南部地域に展開した二

系統の教線で形成されていた。北部地域は南北朝時代に展開していた、隣国

備後教団の影響を受けたもので、山南光照寺・三次照林坊の系列に属するも

のであり、中・南部地域のものは、室町時代に真宗に転じた広島仏護寺の系

列に属する門末であるという。この両者が、戦国期に毛利氏の庇護を受け、

織田信長と戦う石山本願寺を支援したので「安芸門徒」という一つの組織体

として、見なされるようになった。だが、この「呼称」が広く用いられるよ

うになったのは、江戸時代後期・・あの「三業惑乱」に際して、安芸国の門

末が、活発な行動を起こし、相次いで著名な学僧を輩出したため、教団内で

注目を浴びるようになったという。なお、「安芸国」においては、村ぐるみ

の西本願寺の門徒の地域が多く、その結束力が、「安芸門徒」の名を高めた

といえる・・・』ということだが、県に初めて「真宗」が伝えられたのは、

備後の沼隈半島(沼隈)であるといわれている。現福山市沼隈町「光照寺」

の説がやはり有力である。寺伝によると建保四年に、親鸞の弟子明光が開基

したとされている。しかし、実際には鎌倉末期、明光の弟子慶円が山南地区

を中心に布教活動を行ったのが始まりだと、考えられている。

いずれにしても、広島県における「真宗」が最初に伝わったのは、この備後

の地なのだろう。わたしは、今年一月、父親と一緒にこの「光照寺」を訪れ

た。福山から内海へと向かう途中、小高い山の中腹にある。沼隈の民家が

見渡せる・・見晴らしのよい場所に、「光照寺」はあった。この地域を中心

に布教活動はなされたのだ。「明光」の弟子筋になる慶円は、この土地の

人々に広く「真宗」を伝えていったのだろうか。(諸説ある様だが)

この地を訪れると、私はきまって、ある想いに捉われる。高僧の説く教えに

親しんだ若き僧侶たちが、土地の人々と信頼を築き、時には民家を訪ね・・

尊い「み教え」に讃嘆の時を共有している姿を思い浮かべる。

涵養」という言葉がある。それは、大地に水が少しずつ少しずつ浸透し

ていき、大地を潤していく様を言う。この高僧の伝える「法」は、まさに、

この土地の人々に染みわたっていったのではないだろうか・・・。

僧侶

建武四年から翌年にかけては、木辺派四代存覚上人がこの地を訪れ

ている。門弟を育成し、執筆を行いながら・・この地での、真宗布教の

」を築かれておられるのだ。


この土地は「真宗」の香りがする。もちろん、他宗のすばらしい寺院もある。

だが、やはり「真宗」なのだ。広島県における真宗の故郷なのだ。

ほんの一キロ先は田島・横島のある「海」である。内海大橋の手前を右に下

り、西に向かうと浦崎・・もう尾道市だ・・・。沼隈

この土地に魅了される。「鞆の浦」もまた、この沼隈半島の一部なのだ。車

だと、十分ほどだろう・・・。


そしてこの土地はまた、友人の母の里でもある。

この沼隈の地の、真宗寺院の門徒であった。以前は、よく一緒に訪れたもの

だった・・。

この土地もまた、懐かしいものだ。限りなく・・懐かしいものだ。

              南無阿弥陀仏

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