ケイジ板9月

ケイジ板9月

安心は

令和2年9月

少し朝夕涼しくなってきたな・・などと思っていましたら、まだまだ晩夏が

続いていますか、秋の気配に浸るのはもう少し先のようですね。

その「秋の気配」に浸れる頃に、毎年ふと思い出すのは、県北英田郡大原町

のことです。鳥取へと行く途中、この付近はよく通りました。通ったといい

ましても、その頃はただ通り過ぎていただけですが、この地は「武蔵の里

があります。「武蔵」・・そう生涯不敗にして「二天一流」兵法の創始者

宮本武蔵」にゆかりの地とされ、武蔵の生家とされる家や、分骨されたと

される「武蔵の墓」などもあります。もっとも武蔵の生誕の地としましては

武蔵の自著「五輪書」にもあります様に、(生国播磨)と本人も記してい

るところから、播州説と大原町説とがあるようです。それには、種々の根拠

があるようですが、武蔵がこの大原町に深い縁のある人物であることは間違

いがないことです。


若い頃に、この武蔵に心魅かれる時代がありました。学生の頃に読んだ、

「五輪書」「独行道」の言葉に、思うところがあったのかもしれません。

「武蔵の里」にも独行道が掲げられています。何度読みかえしてもその都度

新たな思いに頷くことができます。そして、兵法者・・というより、ここに

は真摯に人生を受け止めた、一人の「求道者」の姿が浮かび上がってきます

仏神は貴し、仏神をたのまず」、の覚悟を持ちながらも、限りなく仏道者

に近い、自覚の境に立ち入っているかのようです。


武蔵は、観念でものを言わない・・自らが会得したことしか語らない・・。

剣をもって、白刃の下に自ら覚ったことのみが、己の力であることを、よく

知りえていたのだろう・・・。

数十年前の或る中秋の前後・・一人「武蔵の里」に宿泊したことがある。

厳しい生き方をした武蔵に最も近い場所・・それが大原である様な気がして

いた。ここから・・始まったのであろう・・・始まったのである。

「物語」は別にして・・「求道者」はここで暮らしていたのだ・・・。


晩年、自らの死を予期した武蔵は、(通説によると)熊本城から西方に位置

する岩殿山の霊巌洞にこもり、一年半で「五輪書」を書き記したという。

1643年10月に書き始め、1645年4月に完成したとのことだ。

「五輪書」は実践者の会得した、兵法書であることは間違いない。

いかに五大(地・水・火・風・空)ー仏教でいう万物の拠り所ー

の形で説かれてはいても、これは兵法の書である。しかし、その兵法書は

兵法を越えて、時に人生への姿勢を語っているのだ。

「空(くう)巻」において武蔵は、

空という心は、物毎のなき所、しれざる事を空と見たつる也。

    勿論空はなきなり。ある所をしりてなき所をしる

                    是則ち空也。』

と、空とは何もないことである。ものがあるところを知って、はじめて、

ないところを知ることができる・・・と記してある。これは、そのまま

仏教で説くところの「空性(くうしょう)」の哲理へと通ずるものである。

さらに・・『まよいの雲の晴れたるところこそ、実の空としるべき也』

(おそらくは)、死に臨んで晴れえた、武蔵最後の迷いとはなんだったのだ

ろう・・・兵法者が自覚しえ、伝えようとした「迷い」とは何だったのであ

ろうか・・・。


大原に宿泊したその夜、開け放った部屋の窓から、「名月」など眺めながら

武蔵の名残・・なのだろうか・・余韻なのだろうか・・そんな旅の一夜が

あったことが思い出されるのだ。

                南無阿弥陀仏

立位  赤紫  (566x800)

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