人生はサーカスⅤ

人生はサーカスⅤ

「備後」のとも

私は、備後の海が好きだ。なぜだろうか・・・。年少の頃の「思い出」があ

るから・・・穏やかな景色の中に安らぎを感じる・・など、言えば理由は

色々ありそうだが、どうも釈然としない。その何れかだけでもなさそうだ。

実際、「国立公園」にも指定され、風光明媚な「鞆の浦」は、観光地として

も、その名は知れ渡っている。

休日ともなれば、県内外からも多くの人々が、この地を訪れ、旅の風情を味

わっている。寺・神社巡りをする者、町を商店を散策する者、少し足をのば

して「仙酔島」へ向かう者・・多くの人々が、狭い道路をさしてを気にする

様子もなく、ゆるりと、気の向くままに歩調を進めている。
鞆の町

堤防沿いにずらりと並ぶ「簡易店舗」そこには、新鮮な魚の煮つけ、干物、

海藻、エビ、瀬戸のべカ・・などが無造作に並べられている。人々は、家の

近所の魚屋に、ちょっと買い物にでも来たかの様に、慣れた眼差しで、それ

らを吟味する。購入するまでの時間は、ほんの僅かである。

そうして、商品は・・次々と売られていく。店中で、調理をする女性たち、

客と商品の受け渡しをする、お父さん方・・みな穏やかなのである。

特別に「威勢がよい」、わけでもなく、だからといって、「愛そうが無い」

わけでもない。皆が、あるがまま・・まぁ、自然なのである。


福山で暮らし始めた、初日、私はまず「鞆」を訪れた。

芦田川を渡り、水呑を越え、田尻を過ぎ・・そして「鞆」へ着いた。

広島でアジア大会が行われる以前の頃のことである。道路はまだ現在のよう

に広く舗装はされていなかった。芦田川沿いを南にまっすぐ走ると、間もな

く鞆である・・・。芦田川

                

「鞆」の歴史は古い。そして、現代に至るまで様々な歴史的事件、文化を抱

きながら、この町はゆっくりと歩んでいる。そうして、その中には歴史を支

える「裏面」の伝承といえるものも、少なくはない。

観光客のそれ程多くない平日に、そうしたことを考えながら、付近を散策し

た。ここには、私が、心を捉えられているひとつの伝承があるのだ・・・

それは・・あの、蓮如上人・・(本願寺の蓮如上人)の母は、この「鞆」

の人であったという、そうした説がある。周知の方も多いかもしれない。

蓮如上人

「応永二十二年二月、京都東山の本願寺第七代法主・存如を父とし

て生まれる。母は備後国(広島県)尾道出身ともいわれる奉公人

で、名はわからないらしい。布袋丸と名付けられた蓮如が六歳になった時

父存如が正妻が迎えることになったため、蓮如の母は本願寺から身

を引くことを決心する。やがて、やっとの思いで工面した鹿子の小

袖を蓮如に着せ、忽然として母は本願寺を去っていく・・・

この母は、祖父あるいは父の使用人だったともいわれ、身分

の低い女性(上流社会の人物ではない)であったといわれている。

蓮如は後に、自ら、『母は西国の人』であるとか、『豊後のとも

いう所のものなり』と語ったということが記述されているという。

・・・が詳しいことはわかっていない。

わたしは、ある一連の書を読みながら、この「鞆」こそが蓮如上人の母の

出身地の様な気がしていた。

豊後(ぶんご)のともではなく「備後(びんご)のとも」の記述者の聞き

間違いではないかと感じていた。

が、確かに、豊後のひとであるという説もあるのだが・・・。

しかし・・・私にとっては、やはり蓮如さんの母は、この付近の人だ。尾道

であるともいう、ここから尾道まではほんの僅か、ほとんど隣接しているの

だ。いう所の尾道とは、この付近のことではないだろうか。


この港町、漁港の女性たちは・・実によく働く・・だからといって、本人が

たは「働いている」などという、構えた気持ちなど無いはずだ。

それは、自然に任せ・・自然と共に・・海風と共に・・その一日の「生」を

受け入れている。どの人の顔にも「くもり」がないのは、そのためだろう。

旅人であっても、「友」の様に語れば、百年の知己を得た如くに語りあえる

見知らぬ者への、「警戒心」も無ければ「高慢さ」ももちろんない。

彼女たちの、「日常」の中に、受け入れてくれるのだ。割烹着にズボン、

そして長靴・・身軽な姿で、右へ左へとよく動く。食事をする店なども、そ

うだな。雑誌などにも取り上げられる有名店などもあるが・・・そんなこと

にこだわりをもっているひとも、一人もいない。家庭の台所と同じなのであ

ろう。

私が、彼女たちに感じるのは・・・(時代は変われども)蓮如上人の母も

こうした女性たちの一人ではなかったのだろうか。「気高い心」を持ちなが

らも、庶民として生きて行く・・・この港町には蓮如さんの母の面影が宿っ

ている・・・

幼い蓮如さんを残して去る、母の気持ちはたいへんつらかっただろう。

しかし、それを受け入れ、潔く去って行く・・毅然とした心を持たれた方

だったのだ・・・

まぁ、あるいは、違うのかもしれない。・・・だが、この土地にもある蓮如

さんの「母の墓」・・・それは間違いなく・・この地の女性の「心」の一つ

の象徴であると言える。それは、疲れた者たちに安らぎを与え・・・大切な

何かを永遠に守ろうとする・・慈悲心の姿でもあるのだろう・・・

                 南無阿弥陀仏

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