人生はサーカスⅡ

人生はサーカスⅡ

ある一コマ

「尾道の子」になり損ねてしまった私は、岡山で青春時代を過ごした。

しかしそれは悪いものではなかった。仲の良い友人もできた。

十代の頃から、現在に至るまで交友が続いている友人も何人かいる。

ありがたいことである。「親友」と呼べれる友も幾人か出来ただろうか、

心に残る友人も多々ある。若き日の常として、すべてがうまくいったわけで

はない。思い出せば、胸に寂しさを呼び起こす、友達との関係もある・・・

「彼」とは同じ中学、そして高校も同じであった。中学を卒業する間近から

親交が始まった。何が、きっかけだったのだろうか・・隣のクラスであった

彼が、休み時間になると、私に会いにきてくれた。何か共通の話題があった

のだろう・・はっきりとは思い出せない。多分ささいなことではなかった

だろうか。おそらく、それは「映画」の話題からではないかと思う。

当時人気のあった「映画」の話からではなかっただろうか。

海外の人気俳優、女優、そして名作と言われていたものの話などを、話し

あっていたのではないだろうか。同じ高校に通うようになってからは、親交

はさらに深まっていった様に思う。表町にあった映画館にはよく行った。

新作の情報を教えてくれるのは彼のほうだった。話題の映画は大抵観にいっ

たのではないだろうか、今でもかなりの映画が記憶にある。たいていはこの

友人と一緒に行ったものだろう。映画を観た後、お互いの家に帰る途中、

私たちは、あの「大きな教会」で休憩するのが常であった。

現在は建て替えられ、当時の面影はあまり残ってはいないが、教会の敷地

には、バレェの練習教室があり、その前には古びたベンチ、そして傍らには

ジュースの自動販売機があった。名は忘れたが、今では見かけない飲み物で

ある。そのベンチに腰を掛け、そこでジュースで喉を潤しながら、先ほどの

映画の感想にふけるのだった。そこからすぐ西側には、我々の通った中学が

見える・・・。自動販売機

ある頃から、彼の夢は「映画監督」に成ることだった。いや、ただ良い映画

を作りたいということだった。当時の我々がそうであった様に、その作品を

観終わった後も、何日も何日も、心に余韻を抱かせる・・そんな映画を作り

たかったのだ・・・。

その後、この友人とは少し気まずい別れになってしまった。私の未熟さゆえ

である。そうだな・・・まぁ、私の、愚かさ・・ゆえであろう。

だがまぁ、その事を別にすれば、この時代は悪いものではなかった。様々な

経験もあった。他にも親しくなったよい友人もいた。そして何よりも、自分

が「求めている事」が何なのか、わかり始めた時代でもあっただろうか。

やはり、有難い時代であったのだろう・・。


備後にて
2009年03月26日_090326_1217~02

少年の頃・・あこがれだった尾道での生活は実現しなかったが、その後私は

同じ備後の地、広島県福山市で過ごす機会を得た。福山は尾道市と隣接した

市であり、その距離はわずか十数キロ離れているだけである。

市役所から南へと渡る国道に置かれた歩道の横には、尾道16㎞と標された

標識が掲げられている。その標識ひとつに、自分が今備後の地にいるのだと

いうことを実感するのだった。この市(まち)での生活は私にとって、たい

へん心地よいものであった。この地は、尾道とはまた違う魅力にあふれた土

地であった。それでいて、どこか同じ「空気」に包まれているそんな気がし

た。それは、ひとつには「言葉」ではないだろうか、尾道との共通といって

もいい「備後弁」・・にあったのではないかと思う。

ただ、福山には「福山弁」というのがあり、これは福山藩初代藩主水野勝成

が徳川家康の従兄弟であり、その影響で名古屋弁が入っていると言われてい

る。微妙な違いがあるのかもしれない。しかし、言葉とは単に歴史的な状況

の変化によってのみ作られるものではない。それらを消化し日々使うのはそ

の土地の人々である。福山の言葉に、名古屋の言葉が入ったとすれば、それ

は直接、水野と関わった、当時の福山の民衆の水野への敬愛の思いが込めら

れているのだろう・・・民衆の心を知り・・民衆に深く寄り添い・・・

共に歩んだ名君であったという・・。


まぁ、それはそれとして、その「言葉」にあったのではないかと感じる。

備後の言葉は穏やかで、どことなくユーモラスでもあり、庶民的だ。

そして、朗らかな気持ちにしてくれる。祖母もまたこの「備後弁」を生涯

話していたように思う。私にとっては、ずっと聞き覚えのある、そして懐か

しい言葉だったのだ。私はこの「言葉」に迎えられた、そしてこの「言葉」

の中で過ごすことが出来たのだった。そして・・何よりも「海」、海である

福山も尾道と同じく市(まち)に寄り添うように、抱くかの様な「海」のあ

る街である。市内から30分も車で走れば、あの「鞆の浦」に出る。


福山の街は、この潮風に守られた街である。「街」がどんなに、賑わってい

ても、「市」がどんなに発展して行っても、或いは・・・苦難の中にあって

も、そこから何度も立ち上がらせるのは・・この「海」の力である。

「福山」も「尾道」も、この「海の力」に守られた市(まち)なのだろう。


福山に住んでいたころ頃、当然の様に尾道には頻繁に出向いた。尾道を訪れ

ると、きまって、祖母の実家の菩提寺である「宝土寺」に参った。

「宝土寺」は駅から東に数キロほどの所に位置し、尾道駅からなら、歩いて

もそれほど時間はかからない。その道中にも、多くの寺がある。その一つ

一つが、長い歴史の中にありながら、町と溶け合い、何らの違和感も感じら

れない。この町が、寺の町であるということもうなずけるとこだ。

「宝土寺」は浄土宗の寺院である。そして、多くの宗旨の寺院が付近には

並ぶ。しかし、少し家並みの中へと入りこむと、そこにはまた、別の宗教

の建物も現れてくる。K教の集会所である。K教というのは幕末に日本で生ま

れた「幕末三大新宗教」といわれるもののひとつである。この内二つが岡

山県が発祥の地である。K教・・岡山誕生のものは、どちらも頭文字がKで

あるのだが。この付近でもよく目にする。山陽本線で福山・尾道に向かう

電車には、新倉敷駅の次の駅に、「この宗教の名」がついた町があり、その

名の駅がある。神道系の宗教であり、多くの信者がおられるという。

K教は、安政6年に設立ということなので、もう160年も経っている。この

宗教もまた長い時代、歴史の検証の中、多くの人々の支えになっていたので

あろう・・。実は祖母の母は、この宗教の熱心な信者だったとのことを、祖

母から聞いたことがある・・・。


ふと、思い出すことがあった・・・。

岡山市内にある私の自宅近くにも、教区の集会所があり、この宗教の信者の

方もおられる。近所に住む、仲の良い知人がいる。年長者の人だが、日ごろ

から親しくしていただいている方もそうだ。その頃はよく一緒に食事などし

た。そして、よく、話した。気取らない方である。「宗教の話」、なども

気兼ねなく、お互い話しあったものだ。

或る日のことだ、彼が一枚のコピーを見せてくれたのだった。そして、これ

これ、と指さすのでその文面に目をやった。随分と古いものの様であった。

「S・N氏の思いで」と題されている。そして、元文部省S局長S・Tと

記されている。つまり、このS・T氏の文書ということなのだろうが

前後を読むのに、広く公開していたもののようである。そこには、

このS・N氏(この宗教の責任ある立場の方であるらしい。尊称がある)

を称賛する言葉と共に、次のような文面があった・・・

「(尊称)氏が、'真宗木辺派管長木邊男爵と'いつも東京で行動を

共にしておられる様子を拝見して実に美しいなと感じたものは

恐らく私一人ではなかったでしょう・・・」

と記されてあるのだ。これは孝慈上人と、このK教の責任ある方との、交流

に感激された方の書かれたものである。

私は、この書面を読み、限りなく嬉しかった。他宗の方の眼から見ても、

尊い事として、心に焼き付いているのだ。そして、「大興」と称せられる

第二十代孝慈上人の、生前のご活躍の姿に思いを馳せた時・・何かしら

大きな世界が、広がって行くのを、感じないではおれなかった・・・

                  南無阿弥陀仏

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