人生はサーカスⅦ

人生はサーカスⅦ

この時間の中に

さて、取り合えず、「時間」は着々と過ぎ去っているかの様に感じる。

しかし、呼び覚まされる「記憶」を観つめてみれば、必ずしも「経過通り」

に記憶しているわけでは、もちろん無い。遠い昔のことが、つい昨日のこと

の様に感じられたり、つい最近のことが、遠い昔のことのように思われたり

人間の心とは、不思議なものである。記憶に上る、点と点を結び、瞬間と

瞬間の間に別の物語を重ねてみたり・・・我々の「生」とはその様なものな

のだろうか。だがそれは、自己の力によって、創りあげているものではない

「我々の生」・・などと言ってみたところで・・・畢竟・・それは、宥めら

れているものにすぎない、とも言えるかもしれない・・・。


福山時代のことも、よく思い出す。と言っても、現在もそれは続いているの

だが。この市(まち)に住んでいた頃には、「仏道生活」のみにおいて言え

ば、よく学んだ・・か。・・いや学べた、時期であったかもしれない。

実にのびのびと、学ぶことが出来たか。福山は広島県の端とは言っても・・

やはりそれは、「広島」、ご法義どころである。本屋などに入っても、真宗

に関連する書籍が実にたくさんあるのだ。それは、嬉しいことだった。

これは、比較的最近のこと。以前からちょくちょく立ち寄っていた、駅近く

の古本屋がある。いつもの様に・・ぶらりと中をのぞいてみた。

ここは、「宗教」のものもひじように多く、そのジャンルは広範囲である。

仏教書に限らず、様々な宗教関係のものがある。高価で、すぐには購入でき

無いものもあるが・・見るだけでも、楽しいものだ。その日、ふと目に付い

たのは、「大栄先生の宗教教室」-浅草本願寺ーというものだった。

へぇ~と思いながら、値段を見ると、お買い得のように思えた。

実際、後で調べてみると。通常の二割程の価格だった。(非売品)でもあっ

た。店の主人に、その本を渡すと「ほう~、最近はねぇ、こういった本はな

かなか出ないんですよ。」と言われた。あまり、購入される方がいないとい

う、意味だろう。それ程厚いものではない。電車の中で、ほとんど読み終え

れた。古い本であった。初版が、昭和四十年となっている。昭和三十年代後

半の対談集が中心である。味わい深いものであった。本屋


大栄先生」・・もちろん、金子大栄先生のことである。

若い頃、この福山にいた頃は、なぜかこの「金子大栄」師のものに縁があっ

た。郊外の書店にも「大栄先生」のものは、多く見受けられた。一冊購入す

ると、翌週訪れた時には、また新しいものが入っている。で、また行くと、

また新しいものが入っている・・といった具合だった。「法蔵館」などのも

のも取り寄せ出来るという事だったので、何度もお願いした。その時取り寄

せていただいた「書籍」は、ある時期の私の「座右の書」といってもいい。

金子師の穏やかな中にも、時折、渦巻いている「熱情」は、その頃の私の心

を捉えていた。それより、まだ若い頃に出遇った安芸の念仏者「月岡松風」

そして、この「金子大栄」・・当時の私にとっては、まさに「知識」と言え

る方がたであったか・・・。数珠


 聖教を披くも文字を見ず ただ言葉のひびきをきく

     正法を説けども 師弟を言わず

     ひとえに同朋の縁をよろこぶ

・・・・だな。


「随意聞法の願い」

   設我得佛。 國中菩薩。 随其志願。 

   所欲聞法。 自然得聞。 若不爾者。

               不取正覺。

【設ひ我佛をえんに 國中の菩薩 其志願に随ひて聞かんと欲する所の法

 自然に聞くことを得ん 若し爾らずば正覺を取らじ。】


ということで、これは「本願」第四十六番目の「願い」として説かれている

ものだ。「随意聞法の願い」それは、様々な(味わい)があるとは思う

が・・「大栄先生」の領解によれば・・・「どんな法でも、聞きたいと思う

ならば自由に聞くがよい。真宗を信じる者は他宗のお説教を聞くべからず、

そういう頑冥なことはいえない。他宗の説教を聞くとせっかく決定した信心

がくつがえるというようなあぶなげなことはいわないで、ほんとうに聞きた

い思ったならば他宗の教えもきくべし、余教の教えも聞くべし、道徳経済の

話も聞くべし、何でも聞くべし。聞けば聞くほど自分の道があきらかになる

わけであります。聞けばきくほどまどわされるというのは、要するにほんと

うの弥陀の道ではないのである。・・・聞けば聞くほど自分の道というもの

があきらかになるからして、随意聞法せよ。こういう非常にひろい道を出し

て、國中菩薩に対して策励を与えている。」・・ということですが、すなわ

ち、もともと「如来の本願」の中には、こうした願いがあるということで

しょう「随意聞法」とは・・・「如来の願い」、であるといえるわけです。

(ひとつには・・ですね。)

この・・「如来の願い」を思う時・・何かそこには、広大無辺といっていい

かの様な世界が広がって行く・・・。他宗を・・ひいては他者をも尊重でき

る心も、この「本願の世界」から起こりうるものであると領解するとき、そ

れはまさに「永遠なる和解と調和」の響きが感じられる・・という事なのだ

ろう。

そう・・・まさに、広大無辺・・・だな。


南無阿弥陀仏

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