ケイジ板8月

ケイジ板8月

弱い人

令和2年8月30日

先日、赤磐市のお寺から岡山へ戻る途中、観音寺付近から見上げる北の空に

見事な「入道雲」が浮き上がっていました。青く澄み渡った空に、モクモク

と浮かんでいました。入道雲か・・・などとつぶやくと、ようやくひと時の

「静寂感」が蘇ってくるかの様でした。

気が付けば「夏」も終わりですね。今年の夏もまた、密度の濃い「夏」でし

たか。毎年この時期になりますと、わずかばかりの「安堵感」の中に酷暑の

中の活動の痕跡が「時間」を突き破って、思い出されます。それは「法務」

に従事するものの充実感でもあります。先日、久しぶりに「同派」の広島の

住職とお電話でお話する機会がありました。

近況などお伝えしながら、現在の様な「コロナ禍」の状態ではありますが、

細心の注意を怠ることなくも、人は進み・・歩んで行かなければならないの

だ・・ということで、頷くことができました。

「時」は常に優しく待っていてくれている、とばかりではありません。

今ある状況を、あるがままに受け入れ「念佛して立ち上がる」以外にはない

のでしょう・・・。


6月25日、今年の夏の初めに、岡山の地元紙には、「岡山空襲75年」の

証言者として、Oさんといわれる方の証言が掲載されていました・・・。


1945年6月29日、北区内山下に住んでいたOさんの家のそばに焼夷弾

が落ち、その衝撃で、両親、4人兄弟が飛び起きたそうです。末っ子である

Oさんは、母親に背負われて家から逃げ出された。家族で旭川を渡ろうと相生

橋に差し掛かった、その時、そこには、火を噴く岡山城天守閣の姿が見えた

そうです。一家が近くの田んぼにたどり着くと、気が付けば2番目の兄がい

ない。はぐれてしまったのでした。捜しようもないまま、残った5人で布団

をかぶって身を潜めたとのことです。そこから、街中に降り注ぐ花火の様な

焼夷弾が見えた・・「死ぬかもしれない」、という恐怖の中、その時どこか

らともなく「南無阿弥陀仏・・南無阿弥陀仏」という声が聞こえてきた。

Oさんの母であった。真宗門徒のそれほど多くない岡山では珍しいことです

その後、奇跡的にはぐれていた兄とも出会うことが出来たそうです。

一家6人は無事であった、ということです・・・


時が経つにつれ、こうした戦時中の体験を知る人は次第に少なくなってくる

でしょう。私自身は、もちろん当時の状況は直接は知りません。

しかし、直接の体験者であった、祖母や母から、この時の「岡山空襲」の話

は夏の初めには必ず聞かされました。忘れることの出来ない記憶だったので

しょう。けれども、恐怖と苦痛に満ちたこうした体験の中にあっても・・・

「人の世」には、尊い何かが生れ、痕跡を残している・・のでしょうか。

いずれにしましても、明日で8月は終わります。夏の終わり・・ですか。

                  南無阿弥陀仏

立位南無 薄みどり (566x800)

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