正見寺 藤の会

正見寺 藤の会

                 紋

2016-04-20 05 藤の会

藤の会ーといいましても、私と、姉の米井 紅風(雅号)の二人で始めた

昼食会の様なものなのですが・・。月に一度、姉の嫁ぎ先であります津山市

のレストラン「R」での、昼食をとりながらのまぁ、雑談会といったとこで

しょうか。岡山にいる私とは少し距離が離れているため時折会っては、近況

の報告、宗教や書道などの話題で時を過ごします。

姉、と言いましたが実際は叔母です。津山に嫁いで行くまで岡山の家で同居

していたため、叔母というよりはやはり姉と呼ぶ方が、きわめて自然なので

す。もちろん、我々の家は熱心な「真宗門徒」の家でありました。

食事の前には、必ずお仏壇の前に集まり祖父昌海の唱える「正信偈」に皆が

合わせて唱和するのが常でありました。そして南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

の中で食事が始まり、終わるといった具合でした。

けれども、紅風(こうふう)と私の共通し合う「原風景」となるといささか

事情が違うのです。当時、我々が住んでいた町には、岡山でも一番大きい

カトリックの教会がありました。そして、そのチャペルの塔の先端が我々の

家からよく見えるのでした。近所にあるこの教会の真冬の光景、クリスマス

が近づく12月の半ば頃から、キリストの生誕の時を表現した「馬小屋」の

様子が飾りつけられます。それは、12月25日を過ぎてからもしばらくは

そのままにされ、道行く人々にも、憩いの場を提示しておりました。

そして、冬が深まるにつれ、次第に夜空は厳粛なる深みを増してきます。

この、教会のチャペルの塔、その上から塔上の十字架を静かに照らし続ける

三日月の光、無数の星々は寒気の中で増々その輝きを増し、この世ならざる

光景を展開するのでした。その光景こそ、我々にとっての「原風景」であり

懐かしい故郷の象徴でありました。

しかし・・平成28年4月14日21時26分を皮切りに熊本県、大分県で

発生した今回の地震。そして4月16日の熊本県での本震。被害は今もなお

続いております。九州ー熊本(益城)には、現在も我々の親族が暮らして

おります。鹿児島、宮崎は大正10年の春に、紅風の父(私の祖父)の一族

が都城から岡山へ転住するまでの数百年の間、居住した土地であり、松田家

にとりましては、真の故郷でありルーツともいうべき源の地でもあります。

心は九州の地を思いました。そして今は、熊本に住む親族、福岡に住む親族

などのことが心を過りました。それは紅風にとっても、私にとっても同じ

思いでした。4月の終りころ私は本山行事に参加のため岡山を留守にしな

ければなりませんでした。未だ連絡の取れない親族を思い、不安を胸に

数日を過ごさなければなりませんでした。私の留守中、父は何度も九州への

連絡を試みていました。けれど、地震発生の直後であり、それは困難なこと

でありました。そして私が本山から戻った夜、何度目かの電話であろう受話

器の向こうから、大きな声が聞こえてきました。そして受け答えする父の声

も大きく「そうか!無事か!」と聞こえてきました。そして父はすぐさま

福岡にいる親族にも連絡をしました。こちらはすぐに繋がりました。

そして無事を確認し終え、電話をきる間際に先方が「もとちゃん(私)

によろしく。」との伝言がありました。取りあえず、少しばかりの安堵感

を紅風にも連絡しました。紅風もまたこの知らせに、大きな安心を得た様子

でした。

その夜、妙に気持ちが高ぶり、すぐには寝付かれず様々なことが心を過って

いきました。久々に伝わってきた従兄弟からの心。鹿児島人である祖父、

そしてその兄弟姉妹の思い出。十数年、或いは二十数年前にすでに浄土へと

還帰した身内の思い出が、なぜか次々に蘇って来るのでした。

浅い眠りのまま、早い夜明けを迎え「本堂」にて朝のお勤めを始めました。

しかし、父はもっと早い時間にもうお勤めをすませ、近くの友人の家へと

出かけている様子でした。

その後、紅風に連絡をして翌日会うことにしました。いつものレストラン

「R」で翌日、紅風と会いました。そして今回の地震のこと、親族のこと、

そして、祖先のことなど話合いながらひとつの「同じ思い」に達しました。

それは、今までの様に出会う時の中、これから先少しづつ「九州」に

思いを向けながら「鹿児島から始まる」我々の祖先への懐かしき思いを

確認したいとの気持ちでした。それは、彼方からの呼びかけでもあり、何

かへの「感謝」の思いであります。それは、過去の出来事ではありません。

ただ単に過去をたどろうというのではありません。それは、現在の紅風の

胸中に湧き上がるものであり、私自身を動かすものでもあります。

それは、古より私たちに働きかけ、私たちを私たち自身とならしめようとす

る働き、何かそんな力を感じているのです。


薩摩(隠れ念仏


文久の頃(1861~1863)といいますから、江戸時代末期の頃のこと

です。薩摩国川辺郡古殿(現在の鹿児島県南九州市古殿)の武家屋敷の一

室でひとりの若い女性が、夫とシュウト、シュウトメの帰宅を不安を抱えな

がら待ち侘びていた。彼女は名を「ぎん」といった。ぎんは天保14年

(1843年)の生まれというので、この時二十歳前後であっただろうか。

この屋敷の主(あるじ)鰺坂納右衛門(鰺坂家)に嫁いできたばかりであっ

た。ぎんは、鰺坂家に嫁いでくるなり妙な気配を感じ始めていた。それは

早くも四日目の夜の頃からであった。時折初更(午後7時~9時)になると

屋敷には誰もいなくなるのだった。まずは、シュウト、シュウトメが、そし

て夫が二人の後を追って出て行くのだった。行先を尋ねても何も答えてはく

れない。ぎんは夫らが帰って来るのをただじっと待つだけであった。

高まる不安に耐え切れず、用心部屋に行き子細を問おうとも思ったが、夜更

けて新妻が用心部屋に出向くなどという事は、当時の武家の作法では許され

ることではなかった。

そのうちふとあることに気付いた。それは夫たちが出かける日は、いつも

月のない暗い夜か、雨の夜であった。不審はつのるばかりだった。

その夜、九つ(午前12時頃)、ようやく三人は帰ってきた。送り迎え無要

と言い聞かされていたので、無言のまま部屋に座り待っていた。

やがて、衣服を着替えている夫の背の後ろに正座した。納右衛門が振り返っ

たとき、ぎんは、きっと夫の目を見詰めた。そして軽く頭を下げ手をつき

ながらも真剣な様子で「お聞きしたいことがございもす」と絞り出すような

声で言った。「なんじゃい、急に改まって」と言いながら納右衛門はぎんの

前に正座した。「毎晩どこさお出もすの」単刀直入にぎんは聞いた。

夫は妻の口からいずれこの問いがでることは予想していた。しかしすぐには

言葉がでなかった。深沈たる夜のよどみが、部屋の空気を圧していた。

あんどんの淡い光が二人を照らし、風もないのにその影がたゆとうていた。

やがて、夫は重たげに口を開いた。「黙っとってすまんじゃった」、少し

間をおき、「別に隠すつもりはなかったとじゃが、お前かに要らぬ心配ば

かけたくないと思ってのう」とゆっくりかんでふくめるように言った。

そして「父上も母上もおいも、念仏さ称えに行っとったんじゃ」と早口に

言葉を続けた。先ほどからの優しさは失せて、その目はぎらぎらと白刃の

様に輝いていた。「ええっ」とぎんはのけ反るような驚きの声をあげ、絶句

して、聞き返す言葉もなかった。全身がこおりつくように震えだした。
       
           
             参照「法灯永久に輝かん」 日笠 大二 著 


この中に登場する「鰺坂納右衛門」「ぎん」の夫婦こそが紅風の曽祖父母で

あり、私の高祖父母なのです。

隠れ念仏

「隠れキリシタン」については、学校でも習い、よく知られています。

江戸幕府の禁教令により、キリスト教が禁教とされて以来、偽装放棄した

キリスト教の信者のことをいいます。「踏み絵」の話などとともに、一般的

にも、広く知られているのではないでしょうか。しかし「隠れ念仏」につい

ては余り知られてはいない。特に岡山ではほとんどの方が知られないのでは

ないでしょうか。キリスト教の中に迫害と弾圧の歴史があったように、仏教

の世界にも、長い迫害の歴史があったのです。それは、南九州の旧薩摩藩、

旧人吉藩の、真宗(浄土真宗)においてなのです。

真宗禁制に乗り出したのは、人吉藩が早く、弘治元年(1555年)であり

薩摩藩は慶長2年(1597年)と後れる。真宗が禁制になった理由は人吉

藩においては、大永6年(1526年)の北原氏による人吉城攻めが原因で

はないかとされています。また、薩摩藩においては、加賀の一向一揆、石山

合戦の情報によるものであるとか、日向国において起きた庄内の乱によるも

のだとか諸説あります。島津家による公式の禁止令が発令されたのは、慶長

6年(1601年)です。両藩においては以後300年にわたり禁制が続

いたのです。その、真宗禁制の中、300年もの間、真宗の教えに帰依し

信仰(信心)を捨てなかった人々がいたのです。それが「隠れ念仏」と呼ば

れる真宗門徒であったのです。

彼らは、藩の監視下から身を隠しながら、講(こう)と呼ばれる、信心に

よって結ばれた組織形態を作っていた。そして「ガマ」とも呼ばれる洞穴に

仏具を隠し、嵐や雨など月のない悪天候の夜を選んで集い、法座を開いてい

たのでした。先の鰺坂納右衛門らが出かけるのも、月のない暗い夜か雨の夜

なのも、こうした理由からでした。

当時の真宗への監視、弾圧は徹底したもので、発覚すれば捕まり、石責め・

縄責め・逆さ吊り・磔・切腹、といった拷問と死がふりかかってくるのでし

た。それは、まさに・・・命をかけた「信心」だったのです。

三百年もの間、徹底した弾圧が続いた理由については、その発端はともかく

も歴史の中では移り変わり、諸説唱えられている。

薩摩は古来他国人の入国を禁じていたが、僧侶のみ許していた。そのため一

向宗の僧侶や僧侶に扮した者が入国し、スパイ行為があったので禁じたとい

説。また、本願寺へ大量の物資が布施として集まり、藩の財政を圧迫する

恐れがあったとする説。或いは、藩政時代は上下階級の区別が厳重で封建

政治にとっては、四民平等観に立脚した真宗教義が施政の邪魔だったという

説、など諸説がある。いずれにしても「仏教」諸派のなかでも「真宗」の

特異性は、為政者のためのものでは無く庶民一人一人のためであり、それ故

真宗門徒が帰依する「阿弥陀如来」は当然、為政者との比較になるようなも

のではない。そうした自覚は「藩」よりも、法の継承母体である「本願寺」

への絶対的な信頼となるため、藩にとっては喜ばしくないことであった。

その為、多額の懇志が「本願寺」に納められる。文化十二年に出された

「達書」には、文化八年の親鸞聖人五百五十回御遠忌のおり、修復が大事業

だったため大変な出費になり、借財を薩摩の門徒にも願っていることが記さ

れている。

使僧(しそう)

真宗が禁止された薩摩の地に、本願寺から使僧たちが派遣されていた。使僧

たちも、文字通り「命がけ」でその任務にあたらなければならなかった。

いつの時代から本願寺が使僧を派遣したかは定かではないが、記録によると

取り締まりが厳しくなる、文政の頃から大弾圧の天保、嘉永年間のものが中

心であるとのことだ。使僧たちの役割は、本願寺門主の宗意を伝え、真宗の

「正しい信仰」を広めること、潰された「講」の再建、本願寺への献金を依

頼していくことであったのだ。

西本願寺が親鸞聖人御遠忌から財政的困窮に陥り、全国の門徒に募財をしな

ければならなかった同じ頃、薩摩藩も多額の借財を抱え、藩財政改革が進め

られていた。ここでは、「講」をめぐっての、薩摩藩と本願寺の攻防が弾圧

の遠因となっている。

使僧たちの薩摩での行動は、肥後の水俣より地理的にも険しい九里の山を越

えて薩摩に入り、取り締まりのため夜に行動しなければならなかった。法座

の多くは、深い山中で開かれていた。田舎での講は夜中に法座を開き、その

うえに多くの見張りをたて、厳しく人数をあらためて、不審のことがあれば

竹で作ったもので合図をするなど、苦労して講は開かれていた。使僧たちも

次の講へ行くときには「かつらに彼の国、風俗の紋付、但しは大島の羽織、

大小にして、夜中に往来」と変装して行動し、「客僧は常に俗服にて、法会

の節は俗服の上に法衣ならびに白衣を着し、若し変も之れ有る節は、法衣や

きすての覚悟、常に油断無く」と法座にて、いつでも法難に対応できるよう

にしていた。また、法難に遭遇したときの心得として、「万一法難等が有れ

ば、捕らへ人に相いなり候えども、御本山よりの御用と申すこと、決して申

すまじく、御用状等はことごとく偽せものと執りなし、一己の計らいたるべ

き様申しひらき」と、本願寺には関係のない自分の行動としなさいと誓わせ

ている。実際は本願寺から大きな任務を担って薩摩に派遣されたにもかかわ

らず、法難になると本願寺とは無関係だとしていた。安芸国の無涯という使

僧は、日向の天領地本庄で薩摩の役人に囲まれ、自害している。使僧たちは

薩摩の講を護持し、本願寺とのつながりを緊密にするために大きな役割を果

たしたのだった。そこには、「教え」を伝える者としての、ただならぬ覚悟

があったのだ。本願寺と使僧、そこには「真実信心」によって深く結びつき

頷きあった者のみが理解することが出来る、崇高なる使命を貫こうとする

高次の慈悲の世界、が展開されていたのだった。

             ※ 参照 -薩摩のかくれ念仏ー(法蔵館)

             ※ 参照ー隠れ念仏と隠し念仏ー五木 寛之著

鰺坂 ぎん

話は鰺坂家へともどる。

納右衛門はぎんのその有り様をじっと見すえていた。ぎんがこの時、前後の

脈絡もなく一途に考えていたことは、夜の明け次第、この家から出て行くこ

とであった。里は近い。それと知った以上こんな恐ろしい家にはもう一刻も

我慢できなかった。ぎんは両肩に夫の強い両手を感じた。

「お前さすったい(ほんとうに)知らんじゃったとか」肩の両手に力をこめ

揺すぶるようにして言った。「はい」とうなずくのがぎんはやっとだった。

夫はしばらく無言だったが、やがて「もう遅い。明日ゆっくり話そうたい」

と言って急に部屋を出て行った。

両肩の力が抜け、全身の支えが取れると、ぎんは畳に両手を投げ、からだを

ねじらせ、声を殺して泣き出した。やがてぎんは気を取り直してたちあがる

と、たんすから白い絹布に包まれた懐剣を取り出した。ぎんの嫁ぐ日に、里

の母が手づから渡したものである。さやを払ってあんどんの傍らに座り直し

芯を搔き立てて、じっと刃の面に見入った。一刻、天地が呼吸を止めたよう

な静けさであった。刃面の波に似た小さな模様が灯に映え、手を動かすとそ

れが漂っているように見えた。その時懐剣と共に、里の母が諭した言葉が

よみがえって来た。女性の守るべき三つの教えとして、儒教の説く三従を示

し、「ひとたび嫁してはその家を去らないのが女の道である。女は嫁しては

父母よりも、シュウト、シュウトメを大切にすべきである。夫は妻の主君で

あるから、どんなことがあっても仕えなければならない。」と説き、更に言

葉を強め「たとえ不縁になるようなことがあっても、夢ゆめ二度とこの家の

敷居をまたごうなどと思ってはいけない。」と言い切り、「その時はこれと

相談しなさい」と懐剣を渡したのだった。

夜が明けるとともに、里に帰るなどという高ぶった感情は急速に冷えるのだ

った。

ぎん、は幼い時から祖父母や両親から「法難崩れ」の身の毛もよだつような

恐ろしい話をたびたび聞かされて大きくなった。「法難崩れ」というのは、

浄土真宗の信心が露見して村中が大難に遭うことを言った。藩は「走りこめ

改め」という無警告の家探しをたえず行って信徒の検挙につとめた。   

それに薩摩藩では多くの武士が地方に屯田してそれぞれの外城の政治をあず

かっていたので、探索の目も行き届いていた。浄土真宗は、島津氏の祖先以

来の念仏禁制であり、島津藩祖島津義弘の時代から、真宗は御禁制の宗門と

して藩政策の眼目となった。

ぎんの母、「たつ」の生まれた文政七年(1824年)から、ぎんの生まれ

た天保十四年(1843年)の化政から天保の時代は、藩の真宗に対する弾

圧が最も兇暴を極めた頃で、とりしまりが手ぬるいと係の役人までが厳罰に

処せられるという有り様であった。それに他国からの侵入者に対する警戒も

厳しく住民には知らぬ人を見たら「おさいじゃったもし(おいでなさい)」

と言わせ、それに適応した返答ができないもの、他国なまりのあるものは必

ず届け出させて容赦なく捕らえるという厳しさであった。このようにすみず

みにまで目を光らせ、刑罰をますます厳しくして、薩摩はこの世の魔境と化

していた。しかし、信仰を守る信徒たちは、村という村、町という町、浦と

いう浦に後を断たなかった。彼らは、「仏飯講」「煙草講」「椎茸講」

「灯明講」などと名づけた秘密結社をつくり、ひそかに信仰のともしびを掲

げて守り続けていたのだった。

なぜ彼らはこのような条件の下で、かくも熱烈に真宗に帰依したのか。

それは体制化した宗教を強いられ、それらの社寺が島津氏の民衆統合の機関

として働く中、民心とは遠い存在となり、人々は「真の心の拠り所」を他に

求めるようになった。その民衆の渇望を満たしてくれたものが「浄土真宗

であったのだ。信徒は、苦心を重ねて、京都に上り、本山から本尊、宗祖の

影像、正信偈などを申し受け、それを格護し、大切にしていた。

           参照「法灯永久に輝かん 日笠 大二著」より

薩摩仏(さつまぶつ)

この本尊は「薩摩仏」といわれる特殊なもので、信徒の求めに応じ、隠す

のに便利なように小さく作られたもので信徒はこれを命に代えて守り、万一

の場合に備えて「代え仏」という偽仏まで別に作っていた。本尊の隠し場所

としては、板壁、柱、たんす、船の帆柱などに穴を刳り貫いた。

しかしおおかたの在郷では、山中または人目につかない砂山の断層などに、

六畳敷くらいの「ガマ」と称する洞穴を掘って、そこに本尊を安置し法座を

ひらいた。このガマを「念仏ガマ」という。ガマとはこの地方の方言で横穴

のことである。

薩摩地方は火山灰土で地質が軟弱なため容易に洞穴を掘ることができるので

農家は家毎に洞穴を掘り、薪などの貯蔵庫として用いていた。しかしこの

「念仏ガマ」は通常のものと異なり、入り口が小さく通路が曲がっている。

それは、読経の声や灯明が外に洩れないためで、煙、香は洩れやすいので

線香は使わなかった。

ぎん、のシュウト、シュウトメと夫の納右衛門が暗夜ひそかに家を抜け出て

通っていたのはこの「ガマ」であった。

古殿の地勢は、吹上浜に注ぐ万之瀬川とこれに川辺で合流する神殿川に抱か

れた平坦な土地で、まわりを緩やかな曲線の山塊に囲まれている。神殿川を

渡ってかなりの道程を野間の山地まで歩かないと、厳しい役人の目を掠めて

法座を開く場所がなかった。暗夜を選び、ちょうちんの火を消して、時には

草履を脱ぎ、咳一つせず、息をこらして忍び会う人々は、小さな入り口から

身をかがめてまがりまがった洞穴の奥に進み、「薩摩仏」に手を合わせて、

念仏を称え、熱烈な読経の声は洞穴を熱っぽくした。この洞穴をかこんで

「お番」と称する村中の若者が二重三重の警戒線を敷いて、不時の検察に

備えた。だが、これほどの注意を重ねても「藩」は密告政策をとり、褒美を

与え、改宗者に密告の義務を押し付けた。露見し村中が大難に遭うことがし

ばしばであった。そして、そこに待つものは酸鼻を極めた拷門の責め苦で、

この世の地獄としか例えようのないものであった。

「薩摩」は信徒には「薩魔」であったのだった。ぎん、はその恐ろしさをし

ばしば聞かされていた。

 鰺坂家(あじさか)

薩摩の夜明けは未だだったが、文久元年(1861年)九月末の朝は、いつ

ものように静かに明けた。ガマの念仏から帰った夫の納右衛門が「もう遅い

明日ゆっくり話そうたい」と言って急に部屋を出て行った後、ぎんが声を

殺して泣き、あれを思い、これを思い、思い悩んでいるうちに朝の気配が

濃くなって来た。

朝食の後、納右衛門とぎんの二人は、中座敷と呼ばれる南向きの一間に対座

していた。朝の陽が広い庭に照り映え、燈明な空気が満ち溢れていて、昨夜

ぎんを悩ませたまがまがしい想念は、嘘のように消え、心の中のまで陽が差

し、風がかよい、さわやかな澄み切った心地だった。もう里に帰るなどとい

う気持は跡形もなく消え失せていた。ぎんは子供のころに聞いた地獄極楽の

話を思い出しながら、夫のいない極楽よりも、夫といっしょにいる地獄の方

が、はるかにすばらしいものに思えた。自分でも驚くほどの心境の変化であ

る。どうしてこんなに変わったのか自分にも分からなかった。夜の闇が消え

て、闇に潜んでいた魔性が消えたためだろう。夫からどんなことを聞かされ

ても、取り乱すことはないという固い自信ができていた。

ぎん、がその朝夫から聞かされた話は、覚悟はしていたものの驚くことばか

りであった。この家の浄土真宗帰依は先祖代々のもので、その信心の深さは

心と魂に喰いいるものがあった。


それにしても真宗ご法度の厳しき薩摩で、しかも武家の鰺坂家が真宗に帰依

していたということは、どのように理解したらいいのだろうか。当時、薩摩

では、武家は藩主にならい、稲荷・諏訪の二神を崇敬し、菩提寺や祈願所は

真言宗であった。武門鰺坂家の真宗帰依は、薩摩では正に暁天の星であり、

それだけに同宗の者からも特別に尊敬されていた。

ぎんが、納右衛門の数少ない口裏から察すれば、遠祖が武家の無常を感じ

宗祖(親鸞聖人)の説く、阿弥陀仏の前では、人は誰でも平等であるという

同朋同行の考えに心をひかれ、百姓町民の上にあぐらをかいてきた罪の深い

武士も、「本願を信じ、念仏を称える」ことによって救われるという親鸞の

教えに帰依したのだった。夫の納右衛門は「本尊持ち」であった。本尊持ち

とは、京都の本山から申し受けた本尊を、役人の詮索の眼を逃れて格護する

大役であった。「本尊持ち」は役人からいちばんに狙われ、彼が自白すれば

講中一同が法難に苦しむことになる。家族も同罪であり露見すれば命の請け

合いは全くなかった。

夫はぎんに真宗の教えを強要するような態度には出ないで、一度ご本尊を拝

むことを、優しい言葉と目付きですすめた。ぎんは、素直に応じた。

その素直さが、ぎん自身、不思議でもあり・・また嬉しかった。


月が変わった十一月の新月の夜、ぎん、は初めてシュウト、シュウトメ

の後を、夫とともに野間の「ガマ」に向かった。ぎんにとっては夫と初めて

の外出だった。それは狼の目に狙われた危険な道であったが、ぎんには暗い

夜道が夫と二人の時には、明るく輝いているような花やいだ気持にともすれ

ばなりがちの、自身んの心を叱りながらも、やはり浮かれてしまいがちだっ

た。息を殺して無言で歩くのはわびしくて物足りなかった。

ガマに近づくと、どこからともなくお番の若者が出てきて、納右衛門にはい

つくばうような格好で礼をし、それを納右衛門が押しとどめていた。

そんな光景を見て信者たちの納右衛門に対する尊崇の気持が分かるような気

がして、身の引き締まるのを覚え、それまでの浮ついた自分の気持が恥ずか

しくなった。

初めての「ガマ」

洞穴の奥の法筵は、ぎんが考えていたよりも狭く、二十人ほどがやっと膝を

付き合わせて座れるぐらいの広さであった。これでも他の「ガマ」に比べる

と大きい方だと後でぎんは夫から聞かされた。奥まった洞穴の砂を掻き分け

て、細長い小さな手箱のような物が納右衛門の手で掘り出された。法筵に連

なる信徒たちの念仏の声がひときわ高まった。夫は手箱を両手で頂き、深々

と頭を下げた後、やおら扉を開き、正面に据えた。ぎんは目をこらして扉の

中のものを見た。それは・・親鸞聖人八十三歳讃「十字名号」の写しで、こ

れが「薩摩仏」のご本尊であった。

十字名号とは「帰命盡十方無礙光如来」で「来」の字の下の半分は蓮の台の

上にかかっていた。名号の上下に別の紙を貼り付け、それには名号の意義を

明らかにした、経・論・釈の文が記してあった。この上下の添紙の文を讃銘

文という。「尽十方無礙光如来」-真宗の本尊は、十方をくまなく照らし、

「何ものにも遮られることのない光明」という如来であった。それは・・・

無限の光明であり、無限の知恵であり、無限の慈悲、であった。

ここに集まっている信徒たちは、ぎんが今まで聞かされてきたような危険思

想を持った兇暴な人間ではなく、穏やかな表情の、心の優しい、物静かな、

腰の低い人たちばかりであった。ぎんは知らず知らずのうちに、称名に和し

ていた。人々の表情にはおだやかな平和が満ち溢れていた。しかし、その内

には一度法難に出会うと、勇敢に立ち向かっていく芯の強さを心に秘めてい

るのである。「娑婆一旦の苦しみのために、永劫のみ親を失うわけにはいか

ない」という気迫に満ちていた。ぎんは一回の「ガマ」の詣でで真宗の教え

に強く心を惹かれて行くのだった・・。

ぎん、の疑問

ぎん、は奇妙に思っていた。それは家の中に神棚があり、シュウト、シュウ

トメや夫までが、朝夕敬謙な祈りを捧げていることであった。聞きとれない

ほどの低い声で何かを念じているのである。さらに不思議に思ったことは、

ぎんの生家では、父が毎朝神棚に柏手を打って礼拝していた。その柏手の音

は朝の空気を破裂させるほどに高いもので、ぎんの耳にも今もさわやかな感

じとして残っている。その柏手が、この家にはないのである。

しかし、真宗には神衹不拝の教えがあるので、真宗の鰺坂家に神棚があるの

は確かにおかしいのである。その神棚は、広い台所の北寄りに大人がやっと

背の届く位置に設えていた。神棚が台所にあるというのもぎんには解せない

ことであった。鰺坂家の台所には、いろりとかまどが同居していた。南国

薩摩でしかも武家の家でいろりがあるのは極めて珍しかった。いろりは、北

国の寒冷地に多く、屋内の火処として多目的であるが、南国の温暖地向きの

ものではなかった。かまどは調理だけが目的の屋外の火処だが、鰺坂家では

それが屋内にあった。いろりの大きさは一メートルぐらいの正方形で、これ

を囲んで座る家人の座席は古くから定まっていた。当主納右衛門の座はもっ

とも上座で、座敷を背にして土間に向かっていた。いろりのある板の間から

西向きに、一仕切り下がって更に板の間が広がり、そこでは使用人たちが集

まって食事をするが、ここでも神棚に背を向けることはなかった。板の間が

尽きると土間になり、かまどが並び、一つだけきわだって大きくつくられた

かまどがあり「おかまさま」とも「親がま」とも呼ばれていた。

ぎんはいつもこの台所に入るたびに里の空気とは全く違ったものを感じた。

武士とそうでない者が分け隔てなく食事を共にし、みながみな一様に神棚

に対し尊敬の態度を示した。ここには台所にふさわしくない息詰まるような

密度の濃い空気が漂っていた・・・。

ご内仏

ぎんは神棚のご本体を知らないでいるのが、だんだん苦しくなってきた。

「神棚のご神体は何でもす」とぎんは、南国薩摩にもようやく初冬の気配が

忍び寄ってきた十一月の末の夜、思い切って夫に聞いた。夫はそれには何も

答えないで「ちょっと待っとれ」と言って、外に出、しばらくして戻ってく

ると、家中の戸締りを厳重に見回ってから、ぎんを台所に連れて行った。

なんとも、ものものしい気配で、ぎんは身の引き締まるような思いを、心臓

の高鳴りと共に感じ、息が詰まりそうな気がした。

ぎんがあんどんに火を点すと、広い板の間が淡い光の中に浮かびあがってき

たが、土間までには及ばなかった。圧しつけるような不気味な空気が静止し

ていた。納右衛門はぎんをあんどんのそばに座らせると、踏み台に上がって

神棚から、神社をかたどった小さな箱のようなものを、両手で頭上に捧げて

下した。それは煙に煤けて真黒になっていた。あんどんの火を掻き立てた。

納右衛門の顔は別人のように強張っていて、ぎんはこころを圧さえ付けられ

るようで息苦しくなった。「ぎん、よっく見るんだぞ」納右衛門は正座した

両膝の上で、扉を開いて一枚の木片を取り出して頂いた。

口の中で名号を称えていた。その木片には「高天原」と墨色されていた。        

「さあ、ぎん、拝むんだ」と言って、木片を裏返した。そこには高天原より

も濃いく「南無阿弥陀仏」と六字の名号が端正な楷書で墨書きされていた。

神棚は六字名号の偽装であり、高天原はその迷彩で、神棚のご本体は真宗の

「本尊」であった。これを「ご内仏」という。薩摩の真宗の信徒は外に

「薩摩仏」を、内に「ご内仏」を祀り、生死の関頭に立って、自らの信心

を守り抜いていたのである。この深い信仰(信心)はどこからくるのだろう

か・・ぎんは胸が締め付けられるのを覚えた。

納右衛門の信心

「薩摩」は当時、鎖国日本の中の、鎖国薩摩国で、住民は二重の目に見えぬ

鉄の輪の中で呻吟していた。住民の背負った重荷は、まだそれだけではなか

った。苦悩からの救済を求める信仰生活までが、藩の圧力に加えて、藩権力

に利用された寺院の圧力が重なり、住民は二重三重の重石に圧し潰され窒息

の状態におかれていた。鉄格子の中で手枷、足枷されているのが薩摩の住民

の姿であった。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごとたわ

 ごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

この、念仏を称えることだけが唯一の救いであり、安らぎであり、幸せであ

った。「弥陀の本願を信じて、念仏を称えること」という親鸞の教えの奥義

に感応し、なんの抵抗もなく、それを実践していたのだった。


厳しい迫害の中では、理屈を並べるいとまもなく、知識や常識を超えて一足

飛びに信仰(信心)の世界に入るより他に手立てなく、またそれが素直な入

信の姿ではなかろうか。虐げられた薩摩の住民には、そのような精神風土が

自然に培われていた。仏を信ずる心は、人びとの心の底に開かれた仏性であ

る。「仏を知るものは仏であり、仏を信じるものは仏でなければならない」

もう死んでもよい、という信仰(信心)のぎりぎりの境地で、彼らは安心

(あんじん)立命を得ていた。阿弥陀仏と一体になっていた。法難の嵐が

吹き荒めば荒むほど、彼らの信心の炎は燃え盛った。その信心の炎こそが

「生きる」熱源であった。

夫の膝の「ご内仏」に対して、いつの間にか、夫の称名に和していた。

一時、自分を忘れて一心不乱に仏のみ名を称えていた。称えているぎんも、

阿弥陀様の名号も一つになっている様に感じられていった。夫の称名に声を

出して合わせている、自身の素直さがうれしかった。仏のみ名を通じて夫の

心とも一体となったことが、実感できたからである。

納右衛門は、ぎんに教えた。「ぎん、お念仏は自分の力で称えるのではなか

ぁ。阿弥陀さまからさしむけられてするものなんじゃ。阿弥陀仏の本願力に

よって、阿弥陀さまからおくられてするんじゃよ。自分が称えるのではなく

阿弥陀仏が阿弥陀仏を称えられるのじゃよ」

ぎんには未だよく飲み込めなかったが、声に出して念仏を称えていると、心

の中になにか光のようなものが射し込んで来て、さわやかな心地になるのだ

った。

文久二年九月二十六日、薩摩半島南岸の大崎鼻に上陸した台風が半島を縦断

して北上した。台風に直撃された半島の被害は大きく、特に万之瀬川に神殿

川と野崎川の支流が合流する田部田、平山の二か村は全村浸水し、多数の死

傷者が出た。神殿川に近い古殿も平地一帯に水が溢れ、ぎんの婚家も床下に

まで水に浸かった。薩摩建築特有の高い床だったので、屋内の浸水はどうに

か免れた。

ぎんが驚いたことには、台風の後始末に追われている役人の目を掠めて、古

殿の信者たちが、家々の「ご内仏」を懐に、念仏ガマに集まり「薩摩仏」を

守護したことであった。激しい雨が、ガマの入り口を洗い流すのを懸命に防

いだ。「番」を勤める若者たちが、石を積み、土のうを築いた。天地の咆哮

もガマの奥までは届かず、自然の猛威も及ばなかった。若者たちに守られて

念仏が称えられた。

二十七日の朝が明けた。空には灰色の雲が幾重にも重なり北に走っていた。

早い雲足だった。ガマから見下ろす野間から古殿の平地は、神殿川まで一帯

の水で覆われていた。神殿川がまるで白竜が躍るように見えた。昼近くにな

ると雲の色が灰色から白に変わり、雲の層がうすくなり、水の引くのが目に

見えて早くなった。ガマから家路には皆それぞれ目立たないように出、ぎん

も夫から少し遅れて出、夫の後に従った。昼下がりになると厚い雲が切れ、

忘れていた青空がのぞき、陽が射し、残暑が戻ってきた。水に濡れた着物か

ら湯気が立ち、目がくらむように蒸し暑かった。

納右衛門、ぎんに信心を伝える

前を歩いていた夫が、急に立ち止まり、左手はご内仏のはいったふところを

押さえ、右手を揚げてぎんに手招きをした。ぎんは気をとり直してすぐ追い

ついた。夫の着物からも湯気が立っていた。「ぎん、あれを見いぃ」夫の右

手の彼方に、いつもはのどかなせせらぎの神殿川が、水のかさを増し、川幅

を広げ、大きな音を立てて荒れ狂い、兇暴性をむき出しにしていた。

「よっく見るんじゃ」と夫がまた言った。ぎんが戸惑いを見せるとまた重ね

て言った。「よっく、よっく見るんだ。分らんかのう」と言われて、ぎんは

ふと気がついた。いつも目印にしていた高い大きな樫の木が中ほどから折れ

折れ口が、無残な姿を白日に曝していた。しかし、樫と並んでいた竹の群れ

が、風に押し倒され、水に沈んでいたのが、今見ると、何ごともなかったよ

うに、すっくと立ち上がり、太陽の祝福を受けていた。

「わかるか、ぎん。あれじゃよ」と言って夫は熱っぽく語り出した。

「雨と風に大手を広げて立ち向かっていた樫の木が吹き飛ばされ、雨に震え

風に身を伏せ、水に流されていた竹がしゃんと立っている。これなんじゃ、

ぎん、分るだろう」夫はさらにことばを次いだ。夫はびっくりするほど雄弁

家になっていた。不思議なことに薩摩なまりが抜けていた。

「竹には不思議な力があると思われんかのう。あのなよなよした竹が、夜昼

吹き荒れた雨風に耐え、嵐が過ぎ去ると何もなかったかのような平気な顔を

して立っているではないか。強そうに見えた樫の木はあの無様な姿だ。今、

法難の嵐が吹き荒んでいるが、わしらの態度はあの竹なのじゃよ。弱気き

強さ、これなんだよ。この強さはどこから生まれると思うかのう、ぎん」

ぎんは、夫が言っている言葉の意味がなんとなく分かるような気がした。

「お念仏ですか」

「そうだ、そうなんじゃ」夫の力強いことばが撥ね返って来た。夫は左手は

胸にあてながら、右手でぎんの肩を強く押さえて、またことばを続けた。

「ぎん、あの川を見い」

神殿川の濁った水が黒い波頭を躍らせ音を立てて、矢のように流れていた。

いつもおだやかな表情の神殿川を見慣れているぎんには、きょうの荒れ狂っ

た狂相は、業縁による心の転機一つで、菩薩にも夜叉にも変化するという人

間の心の恐ろしさをまざまざと見せつけられている思いだった。

そういうぎんの心をみぬいたかのように、「川の瀬もいろいろ変わるものよ

のう」と言い、更にことばを続けた。「あの濁った水が、二・三日もすれば

元の綺麗な水に戻るのじゃ、これも不思議ではないかのう。いやっ、もっと

不思議なことがあるのじゃ。あの濁った水を飲み込む吹上浜の海の水はいつ

見ても目の覚めるような青海原なんじゃよ」

ぎんは夫の言っていることばの意味が、前よりももっとよく分かるような気

がした。まぶたに吹上浜の白い砂と青い海の美しい景色が浮かんだ。

「吹上浜の海の水は、澄んだ水、濁った水とわけへだてしないでみんな飲み

込んでしまうのじゃよ。そしていつの間にか元の青海原に返っているんじゃ

よ。濁った水が、いくら自分の力で綺麗になろうと思っても、なれるもんじ

ゃない。海に吸い込まれ、海に任せ切ってはじめてすむんじゃよ。濁った水

を海の碧さに変えていく、海の力が・・ぎん、分かるか」

「わかります」そくざに答えた。

納右衛門は満足そうに微笑んだ。

「なぁ、ぎん、あの竹の強さ、この海の不思議な力、これなんだよ、これな

 んだよ、これがわしたちの姿なんだよ、分かるか、ぎん」

「はいっ」と答えたが、夫が、竹と海になぞらえて話した内容がみな理解で

きたわけではない。それでも、ぎんの頭のなかで、どろどろしていたものが

固まり始め、形をなしていた。信仰(信心)の強さ、実相といったものが、

おぼろげながら分かってきたような気がするのだった・・・。


真宗の信徒の姿は、ある意味、弱竹の強さ、川の流れの自然さである。

己のはからいを捨てて、み仏の光の中に自分を預けてしまうのだ。阿弥陀仏

にお任せするのは人間が弱いからだというように見えるが、そうではない。

「任せ切る」とは、崖の上から飛び降りるような覚悟がいる。なかなかこの

境地に到達できるものではない。ぎんには、信仰(信心)を持たない生活は

根なし草にも似て、生きるに価しなく、今までの生活も無意味なものに思え

てきた。妙にわびしく、はかなく、哀れっぽく感じられた。

夫が話をしめくくるように言った。

「わしたちのこの強さは、どこから来ると思うかのう」

「お念仏」ぎんはすなおにその答えが出た。

「そうだ、ぎん、一心称名すれば、み仏はいつもわたしたちの心の中にいて

くださるのだ。朝な朝な仏とともに起き、夕な夕な仏を抱いて寝る安心

(あんじん)の世界に入れるのだ」「よく分かりもした」

夫のことばが一語いちご心の中にストンと落ち込むのを感じた。振り向くと

田上岳の緩やかな屋根が、ぎんに微笑みかけていた。台風の生々しい爪の跡

も、ぎんには気にならなかった。文久二年九月二十七日、昨年の十一月の末

の夜、台所の板の間でご内仏に向かって、夫の称名に和したときから見れば

ぎんは更にみ仏にちかづいていた。

             参照「法灯永久に輝かんー日笠 大二著」より

       
          

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