正見寺 藤の会Ⅴ

正見寺 藤の会Ⅴ

親鸞聖人
    (親鸞聖人)

自餘の行を勵みても佛になるべかりける身が念佛を申して地獄にも堕ちて

候はばこそ「賺(すか)されたてまつりて」・・・という後悔も候はめ、

いづれの行も及び難き身なれば・・・ とても地獄は一定すみかぞかし

                           (歎異抄)

野洲川を渡り終えようとした時、突如、雪は降り始めた。吹雪の舞である。

列車の進行方向からは聞こえるはずもない雪風の音が、遠い彼方から立ち向

かってくるかのように体に伝わってくる。真冬の近江では日常のことなのだ

ろう。もうすぐ駅に着く・・・。改札口をぬけ、バス停へと向かう。

発車時刻までは、まだ時間がある。雪はまだ降り続いている。しばし、早朝

の野洲のまちを見渡した。今ではもう慣れ親しんだまちだが、最初訪れた時

には、不思議な感覚に支配された。それは、遠い昔にこのまちで暮らしてい

たような不可思議な懐かしさだった。思い出すはずもない、以前の「記憶」

を何とか探ろうかとしている様な、不思議な思いだった。初めての場所へ

訪れた時には、人はそうした思いに支配されるのだろうか・・・。

しかし、今は、私にとって、このまちとは「本山」のあるまちである。それ

は、私にとっては「おかえりなさい」と温かく迎えてくれる、本当の家のあ

る場所なのだ。そこは「信心」の故郷である。「信心の故郷」があるがゆえ

に、私は・・この市(まち)に・・心やすらぐ。

                       南無阿弥陀仏

大正15年、松田家が九州より岡山の地に居を移してから5年ほど経った。

幾和は岡山に来てからも真宗寺院を探し出しては、聴聞に励み、聞法の生活

を忘れることはなかった。真宗寺院の少ない岡山では、それはたいへんなこ

とではあった。しかし、幾和の人生にとって聞法のない生活は、考えられな

いものだった。偉いご住職がおられると聞くやすぐさまそのお寺に参り、偉

い先生が来られると聞くやすぐに訪ねて行く、といった具合だった。

同年の11月、というから藤子27歳。尾道実科女学校の教頭をしていた頃

だ。岡山に帰省していた藤子を連れて、幾和は千日前にあった真宗寺院を訪

れた。その日は、広島県より真宗念仏者(安芸門徒)の方の宗教講演会の開

催される日だった。それは、かねてより幾和が関心を寄せていた人物であり

広島県内各地で講演会を持ち、県内には彼を慕い、彼とともに歩もうとする

多くの、同朋・同行がいた。この日は岡山では初めての講演会の日であり、

岡山医大病院の入院患者が対象のものであった。

二人は山門をくぐり、本堂の広間へと向かった。法莚にあてられた広間には

もうすでに多くの人々が、阿弥陀如来本尊に向かって正座し、お念仏を称え

ていた。母と娘は片隅に肩を並べて座り、静かに称名した。定刻の十時にな

った。その日の講師、その人物は定めの席に着座した。

広い秀麗な額の下に濃い眉毛が並び、両眼は優しく輝いていた。白晳の顔に

黒地の和服がよく調和し、数珠を右手にしていた。その姿は、学校の先生か

お医者さんのようであった。それもそのはず、彼は以前は学校の教員であっ

た。教員時代のある日、熱心な真宗門徒(西本願寺)の家に生まれた彼は、

Y寺院の住職から「歎異抄」を送られた。それが、彼が宗教の世界に目を向

け「信心生活」に入るおおきなきっかけだった。抑えがたい道念に導かれる

まま、彼は教職から去り、宗教の世界へと入っていった。そして多くの同朋

同行が集まった。彼の「仏徳讃嘆」の姿は有縁の人々の心に潤いを与えた。

彼の没後、数十年経った今でも、当時彼と共に念仏に精進された方々の有縁

の者、その子や孫たちによって団体として存続している。しかしここでは、

彼について紹介するのが主旨ではない。縁深き者たちの一人として、紅風と

私とでその「思い」について、味わい感じていきたいと話し合った。実名は

憚られる。仮に彼の名を・・・月岡 松風と呼ぶ・・。


月岡は明治二十八年(1895年)二月十五日、広島県山県郡原村大字中原

(現山県郡豊平町)に生まれた。弟妹が六人あった。両親はそろって信心に

篤い人で、自宅でしばしば法座を開き幼少の頃から聞法の機会に恵まれ、宗

教的な空気の中で育った。尋常小学校、尋常高等小学校時代、成績優秀によ

り群長(当時)から褒賞され、秀才の誉れが高かった。将来を属目されて、

広島師範に進学し、二十二才で首席訓導に昇進、教育者としての道を順調に

歩んでいた。彼が「歎異抄」に出会ったのはその頃であった。「先生」と言

われて過ごす毎日にも「聞法の家」に育った彼には、何か飽き足らぬものを

感じ、心に透き間風が吹くのを覚えるようになっていた。「歎異抄」との出

会い・・・そして彼はその心の透き間風に耳を傾けだした。ここから彼の求

道は始まった。彼自身は僧侶ではなかった。それは彼が教員の道をすでに歩

んでいたからであった。しかし、本山を尊び、有縁の寺院の住職がたとも深

い信頼関係を保った。彼の真剣なる求道の姿勢は、寺院の期待する姿でもあ

った。現在では珍しいことではないが、当時としては稀有なることであった

だろう。後に彼の次女は、山口県にある真宗寺院に嫁ぎ、孫たちは現在それ

ぞれの寺院において住職として法務に精進しておられる。


明治二十八年生まれの月岡は、明治三十二年生まれの藤子より四歳年長にな

る。藤子にとって月岡は、信頼することが出来る真の法兄の様に思われた。

その日の講義は、聖典に従い、曇鸞大師が「浄土論註」の中で説いた「下品

の凡夫でも正法を誹らず仏を信じたならば、往生できる」の教えと、善導大

師の般舟讃に「十悪を行うとも、廻心念仏すれば、罪みな除かる」の教えを

挙げ、わが国の源信僧都、法然上人がこの教えを継いだことを述べ、「一生

悪をつくれども、ただよく意をかけて、専精につねに念仏すれば、一切の諸

障自然に消除して、往生するを得」との道綽禅師に説き至り、法然の「悪人

救済」から親鸞の「悪人正機」への展開を述べたものだった。

藤子にはその日の月岡の説く講義の内容は、今まで心の中で求めていた何か

が、はっきりとした「形」として言葉として語られたのが感じられた。

それは、月岡の「真宗」への熱き思い、そして月岡もまた現在の自分と同じ

く教育への道をかつては歩んでいたという親しみが、一層の共感を誘ったた

めであったのだ。

講義の後、幾和は庫裏の一間で、藤子を月岡に引き合わせた。月岡のもつ温

かい空気が藤子の心に伝わってきた。講義中の炯々たる眼光は消え、舌端か

ら火を吐いた口元の厳めしさは失せ、全身から春風が流れているかの様であ

った。庫裏の一間は、穏かさで満ちていた。

「よく来られましたなぁ。これも母御が取り持つ仏縁でございますなぁ。あ

りがたいことです。」と月岡は顔をほころばせて藤子に語りかけた。その声

色からも炎の鋭さが無くなり、心の和む優しい声であった。

「きょうはありがとうございました」と藤子は心から頭を下げて、この出会

いに感謝した。これが、藤子と月岡の最初の出会いで、この出会いが藤子の

運命を導き、これからの一生を決定づけることになる。母幾和によって種蒔

きされ、この月岡によって開花し結実するのである。

月岡の言葉は続いた。「あなたは、女子として最高の教育を受けられた。

しかし、本当の学問はこれからですぞ。あなたは、若い。あなたの人生はこ

れからだ。人生のみちのりは決して平坦なものではありません。山あり、川

あり、谷もあります。いろいろの苦しみが、いろいろに形を変えて、あなた

を待ち受けています。生きるということは、苦しむことです。そしてこれに

じっと耐え忍ぶことです。いや、耐え忍ぶだけでは弱い、耐え忍ぶことに慣

れることです。慣れてしまえば、忍ぶという気負った心も軽くなり、気持も

楽になります。言ってみれば、早く人生に慣れ人生の達人になることです」

言々句々が火を吐くように、藤子の心にやき付いた。藤子は心の中で月岡の

言葉を反芻していた。-人生に慣れ、人生の達人になれ。-その言葉が借り

物でなく、生活体験から滲み出たものだけに、生き生きとしていて、感動を

覚えた。「あなたが何年か先になって、過去を振り返ったとき、一番楽しい

思いでになるものは、惨憺たる苦心の記憶です。後になって考えたとき、あ

なたの人生に一番のくすりになったものは、粒々辛苦の体験であることに気

付くでしょう。生活の経験を積んで自信がつき、力がつきます。それが人生

の本当の生きた学問です。」月岡は懇々と若き藤子に語り続け、更に奔流の

ように金句が流れ出た。「あなたは今までの学問を一切捨てなさい」ときっ

ぱりした」口調で言われ、藤子は一瞬耳を疑い、月岡の顔を見詰めた。

春風のような温顔を崩さず、いぶかし気な藤子の視線をすえて更に言った。

「学問を捨てなさいと言ったのです。そうすれば・・・その学問に光が出て

来ます」と言い、親鸞の修業を例にして話を続けた。

(親鸞は若き日に比叡山で修業をした。当時、比叡山は日本仏教の最高学府

であり、根本道場であった。そこで二十年間修行した。学問的知識は十二分

に修めたが、心の不安は募るばかりだった。学問的知識だけではどうしても

満たすことのできない、心の虚しさに悩み抜いた。それは、法然も親鸞も同

じであった。高次な人間の心の世界では知識は全く無力であった。知識は心

の糧になるものではない。心の糧になるのは、知識ではなく・・智慧である

大学者の知識も、田舎の老婆の生活の知恵にははるかに及ばない。智慧とは

真実を極め、真理を見抜く力である。この智慧の光を照射したときに学問は

始めて生きてくる。智慧は、人生で現実の生活を通して学ぶものである。

そのためには、まず人生とは何かを知り、いかに生き、なにをすべきかを決

めることが大切である。)

月岡はこれに関連して、仏教の考え方の基本である因果の法則を語り、釈迦

の最後の言葉を教えて長い話を終った。釈迦の最後の言葉として伝えられて

いるのは、「すべてのものは移り行く・・・怠らず・・努めよ」である。

月岡が藤子に教えた釈迦のこの言葉は、平凡な教えではあるが、平凡な言葉

の中に実は人生の真相と、生き方の大原則が示されている。藤子のこの時以

来の生活はこの、怠らず・・努めよ、の実践であったようだ。

この「怠らず、努めよ」は、藤子の大切な生活信条となった。彼女はその

大切なブッダの教えを実践したのだった。


月岡との知遇を得てからの藤子の仏道修業に対する真剣さは益々熱のこもっ

たものになっていった。休養もなかった。その頃の藤子の日常生活を知る、

戦争歴戦のものでさえ「命がけということは、戦場に赴く軍人のことのよう

に考えていましたが、一人の人間が一つのことに真剣に取り組む姿は非常に

厳しいものだということが分かり、心から頭の下がる思いがいたしました」

そうしみじみと語ったと言う。仏道修業の苦しさとは、求道することの苦し

さである。求道することの苦しさとは、けっして自己を偽らず、あるがまま

の人生の厳しさをあるがままに受け入れ、より高次の世界へと誘われて往く

ことだろう。「信」の世界に入るまでの自力のもがきは、必ず一度は通らな

ければならない登竜門のようなものだ。それは精神生活の限界に挑むもので

心を焼き、魂を煎るような煉獄の苦しみにも似たものであった。

このような仏道の研鑽を積み、修業を重ねながら、昭和十二年、西本願寺に

おいて得度し僧籍に入るに至ったのだった。


さて、母幾和と同じく、藤子の仏道生活に大きな影響を与えた月岡だが、彼

自身の「念仏生活」の中より自覚するに至った数多くの言葉がある。月岡の

真宗門徒としてのすぐれた所感であり感慨である。それらは、当時より月岡

と共に教えに親しんできた者たち、その有縁の者たちによって書籍としても

まとめられている。紅風も私も年少より、その「言葉」に親しんできた。

真宗念仏者としての、この法兄の、かつての「自覚」を、その日は味わわせ

て頂くことにした・・・。

2月19日、午前中に法務が終わり、お寺(正 見 寺)で紅風と会うこと

にした。父は岡山の友人に会いに出掛けた。14時を少し過ぎた頃、書道具

店での買い物を終えた紅風がやってきた。次回の書道会で出展予定の幾つか

の作品、そして、以前頼んでおいた月岡氏の書籍を抜粋したノート、資料な

どを持参してきた。作品ーは下書きだが、私にみせてくれるためだった。

月岡氏の言葉、はそれだけでも一冊の本になるほどの厚さだった。

                 

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