keizi版8月

keizi版8月

夏は

「夏は精進の相」と、ある宗教家の方は言われました。

猛暑、とも、酷暑とも表現できる炎天下に、黙々と耐え忍びながら、何かに

打ち込む姿勢は尊いものが感じられます。それが、どの様なことであっても

そこには、「退かざる者」の気迫が感じられます。スポーツの世界でもそう

でしょう、修行の世界でもそうでしょう、或いは人知れずボランティアなど

の活動を行うこともそうでしょう・・「我が道を往く」ということは、たい

へんすばらしいことだと思います。そこには、精進するということの、真の

喜びが生まれてくることでしょう。


最近、若い方からのご質問に「今回の大雨ー西日本豪雨ーなどの被災地に

おいて、仏教的にはどの様な手伝いができるのでしょうか。」と、ありまし

た。少し考えました。仏教的には・・ということにおいて、改めて考えさせ

られました。そして、要約いたしますと以下の様にお答えさせていただきま

した。


そうですね、連日のように報道されております今回の災害、そして復旧に

向けて活動されている多く方々、この中には以前自らが被った被害(地震)

の時に、多くのボランティアの方々に世話になった、その恩返しのつもりで

、と決心され、遠方より真備までこられた方もおられる様です。

また、何かお手伝いがしたい・・と思いながらも、現実には諸状況の中で、

したくてもそれができない・・と感じられている方々も大勢おられるのでは

ないかと思います。東日本の大震災の時にも震災(津波)後、仏教に限らず

多くの宗教者が現地を訪れ復旧の手助けをされようとしましたが、物理的に

は果たしてどこまで思いを伝えることが出来たのか・・難しいところであっ

たと感じます。ただ、ご質問が「仏教的・・」とありますので、その限りで

考えてみますと、「仏教的にも」物理的なお手伝いや援助が、出来うる場合

もありますし、「物理的には」出来ない場合もあるかもしれません・・。

これは、親鸞聖人のお考えですが(歎異抄)、原文を読めばよいのですが、

少し簡略に説明させて頂きますと、「慈悲」という言葉がありますが、この

「慈悲心」には二通りあると言われております(聖・浄の言葉もちいず)

ひとつには、起こっているものごとに対して、あはれみ、かなしみ、

はぐくむということ・・けれども、思うごとくに動き助け遂げるということ

は極めて難しい・・のだ。なぜなら、我々自身が宿業に束縛されている身で

あるからなのだ。しかし・・もうひとつの慈悲心というものがある・・。

それは、仏(おおいなるもの)の力により、人々を思う如く救済するという

利益(りやく)を得ることなのだ・・。そこに至って初めて「救い遂げる」

ということもできるのだ・・と言われております。

仏教徒としましては、仏(おおいなるもの)のはからいにまかせる、即ち

今の自分に起こりうる「どのような手伝いができうるのだろうか・・という

心をそのまま、仏・・即ち・・「如来の領域」に委ねる以外にはないのでは

ないでしょうか。ということです。

現実に出来うることは、その中から生まれてくるでしょう。

物理的、直接的には難しい場合なら、無限に連鎖している「人の縁」のなか

で、関係者の方々に、温かい言葉、優しい眼差し、優しい顔などが、機に臨

んで(被災地に関係する縁ある方達、その友人、知人などにも)出来うるか

もしれません。仏教でいう「布施の心」です。その布施の精神の中には、身

施というものもあります。これは文字通り、身体を使って・・行じる布施の

ことであります。それが、出来うるべき機縁があれば出来うるということで

しょう・・。何が出来うるかは、我々の思いではなく、「はからう仏の心

の内にある。」

といったようなことを簡略に説明させて頂きました。


「そくばくの業」を持つ、私においては、「仏教的」というも、やはり

こうした思い、説明以外にはないように感じました。


そして、身施といえば、あの「関東大震災」の時、震災による負傷者、

孤児などの救済活動のため、「願意に促され」、命がけで取り組まれ

た・・・あの女性、九条 武子夫人。

夫人の「命をかけた働き」を思い浮かべる時・・・

                       南無阿弥陀仏

  立位南無 薄みどり (566x800)           

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