ささゆりの乙女~玉島

ささゆりの乙女~玉島

ささゆりの乙女

令和2年11月

今年の9月の半ば頃だったでしょうか。父親を車に乗せて、倉敷市玉島中央

付近へ行ってきました。途中、円通寺へ寄り、沙美海岸近くまで行きまた

戻って来たような形になりました。この日の目的は、以前父親が友人と共に

研究した玉島出身の漢学者「川田 甕江」(かわだおうこう)の生家を訪れ

るためでした。現在は会社の事務所として使用されているとのことでしたの

で、そちらに伺いますと、生憎と社長さんは外出中でした。事情を説明しま

すと、お近くにある会社Eを紹介して頂きました。E社のM社長は父とも同年

代の方のようであり、丁寧に応対していただきました。

まず「川田 甕江」について少しご紹介したいと思います。


【倉敷市玉島に生れる。幼名を剛(つよし)という。山田方谷に師事する。

山田方谷は、備中松山藩の陽明学者で、また経済学者でもあった。

ー今日の光陰は実におしむべき日なり。この念を忘れるは、不幸の罪なり

という方谷の言葉があるが、甕江はすばらしい人生の指導も受けた。

こうした指導の上に東京に出て漢学の塾を開き、のち東大教授(文学博士)

となった。又宮中の顧問官としても活躍した。さらにあまり知られていない

が、次の二件について、紹介しておこう。

一 明治天皇の側近として「教育勅語」の編集にあたった。

二 明治を代表する小説に「金色夜叉」がある。貫一とお宮の恋物語であり

原作者は尾崎紅葉であるが、この甕江の四女「綾子」がそのモデルであると

言われている。

貫一とお宮が、知り合ったのは、甕江の塾であった。しかし、小説と違って

綾子は金に目がくらむような女性ではなかった。学習院出身の素晴らしい少

女であった。また、原作者尾崎 紅葉の妻も岡山新見の女性である。】
                         (絆)参照

実は十数年前父が友人と、この玉島中央を訪れたのは、「甕江」の研究もさ

ることながら、この「金色夜叉」のモデルとされる「四女綾子」について知

りたかったからです。そして、現実の「川田綾子」は小説の「お宮」とは異

なり清廉なる女性であったのでした。貫一のモデルとされる「巌谷季雄」が

漢学塾で学んでいたことは確かです。しかしこの時貫一(季雄)は16才宮

(綾子)は9才でした。幼い恋心はその後も続きますが、小説の「金色」に

繋がるような話ではありません。小説の中で有名な「熱海の海岸」のシーン

は「綾子」ではありません。綾さんは誰ともその様な交際はしていません。

華族女学校(女子学習院)の生徒で、休日も、茶道、華道、お琴と習い事に

精進されておられました。綾さんはたいへん聡明な、美しい女性でありまし

た。そして、素直な心を持っておられました。「ささゆりの乙女」・・・

彼女はそう呼ばれていました。


貫一(季雄)の告白によりますと、宮(綾子)は、《髪は雅子髷、肩にも

大きな縫あげのあるいたいけな姿であるが、その顔の輪郭が母に似ていかに

も形よく色は白く眼に一寸くせはあるがそれが却って私には、チャーミング

な上鼻筋が通ってとても美人そのものであった。》と述懐しています。

貫一(巌谷季雄)に純粋な恋心があったのは間違いないでしょう。しかし、

尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一、お宮は紅葉が創作した「貫一、お宮」-そ

れは当時の世情ーが背景にあるものでありますが、現実の貫一(季雄)お宮

(綾子)とは同一ではありません。


宮(綾さん)は、二十一才で結婚します。正式な仲人によるものです。

相手は、第三第日銀総裁の次男川田豊吉です。真面目で誠実で心優しい東大

出身の好青年でした。函館ドッグの社長になりました。二人は、ジャガイモ

の試験栽培に成功した主人の兄の手助けをして、男爵川田家の屋号から、

「男爵イモ」として世界に売り出しました。「男爵イモ」には玉島を故郷と

する宮(綾さん)の真心が込められているのですね。

紅葉の当時の世情に対する哀しき憤り、事実と真実、虚構と真相、それらの

奥深くに隠された貫一(季雄)の「優しき心」。本当の物語は海底深くに眠

らした「人間の美しさ」をも奏でているようです。


貫一(季雄)は、小説家となり巌谷 小波(いわやさざなみ)と名乗りま

す。綾子の結婚した相手と小波は旧知の間柄でした。そして、小波は二人の

結婚を心から祝福しております。そして、その後小波も妻をもらいました。


大正十二年綾子は病に倒れました。状態は良くないとのことであった。

綾子の夫は、小波にもそのことを知らせた。知らせを受けた小波はすぐに駆

け付けた。同年の十二月のことだった。綾子は目をとじていた。

小波は、綾子に声をかけた「綾さん、元気をだすのだ」と。彼の姿を見た

綾子は嬉しそうな目をした。しかしまた、目を閉じるのだった。

「綾さん、もうすぐ正月だ。元気をだすのだよ」とはげますと、彼女は悲し

そうな顔になり「それまでは・・」と言って、じっと彼の顔をみつめるの

だった。あまりの悲しさに、彼は彼女の手を取りました。

それは、柔らかな・・・あまりにも柔らかな手であったのでした。

十二月二十八日、綾子は亡くなった。四十六才であった。葬儀は近くのお寺

で催された。通夜にも葬儀にも小波の姿があった。天気の良い日であったと

いう。彼の頬には、大粒の涙が流れていた。そして、すすり泣く声が聞こえ

ていたと言われています。

「ささゆりの乙女」と言われていた綾子は、こうして大地へと帰っていきま

した。野辺に咲く白い美しい一輪の花・・しかも、ささゆりは「母の匂い」

のする花と言われています、温かさのある女性であったのでしょう。

計らずも・・尾崎紅葉の小説「金色夜叉」によって、世人の知ることとなっ

た「川田綾子」、そして・・「巌谷小波」。

そこには紅葉の創作だけでは語り尽くせなかった「真の友情」と・・小波

の、明治の男の・・気高い恋心、が見え隠れする、ひとつのドラマが展開さ

れていたのでした。

              南無阿弥陀仏

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